精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

最高にして最難関の学習法にして休息・【なにもしない】に代わる方法はないものか?

僕が思う身近で最大のミステリーは、ショウジョウバエはどこから嗅ぎ付けて、生ごみのとこに入ってくるのかということです。中元です。

 

はい。学習法とか、記憶の定着法とか、そういうことを調べていると必ず辿り着く文言がある。それが、【なにもしない】という時間だ。

 

どうやら、記憶というのはこういう無の時間に脳へ定着するようで、意識的にこういう余白を作らないと、頭に残らずどんどん流れてしまうらしいのだ。

 

ところが、僕はこの【なにもしない】ことの重要さを認識しつつ、それが非常に苦手というか、まともにそれができた記憶が実は無い

 

手を止めればそわそわするし、ぼーっとしろと言われても、周りの目があるから限度がある。

 

それは生徒も同じだ。暗記には休息が必要と何度説いても、休憩中は持ってきたカードゲームに興じるなど、その時間を過ごす気配がない。

 

―ところで、【なにもしない】ことについて、僕はきちんと学んだことがあるだろうか。

 

書籍やブログの聞きかじりを表面だけなぞって、向いてないと結論付けてないだろうか。

 

―こういう自分にとっての異物は、納得できないままに飲み込むのも一手なのだが、せめてもう少しだけ解像度を上げて正体を掴みたい。そう思った。

 

ということで今日は、この【なにもしない】ことの言わんとすることを、別角度から掘り下げていきたいと思う。

 

 

【なにもしてない】ときでも、脳はなんかしてる。

まだまだ研究の途上なのだが、学習という行為には、大きく分けて2つのステップがあるらしい。

 

1.目先のことをインプットする段階

2.それを記憶に定着させる段階

 

という感じだ。とても乱暴な区分なので、細かく分ければまだまだ分割できるが、一旦このくらいにしておこう。

 

さて。目先のことをインプットするというのは、塾なり学校なりにいる限り、絶対に向き合う作業である。寝てない限り、誰でもやろうとはすることだ。

 

しかし、意識してそれを記憶に定着させる働きかけをする人は、極めて少ないとおもう。なぜかというと、そうするための方法こそが、【なにもしない】ことだからだ。

 

少し詩的な書き方になるが、集中していた対象からふっと意識を外し、ぼーっとすることで思考をふらふらと彷徨わせると、途端にあるアイデアを得られることがある。

 

名前が思い出せなくて悶々とし、しばらくたってから頭に電球が現れるように思い出すあの感覚と全く同じだ。

 

そういう閃きを得るためには、脳のモードを変える必要がある。これは【拡散思考】だったり【弛緩モード】だったりと表記ゆれが激しいが、根っこは同じだ。

 

懐中電灯の光を絞って一点だけ強く照らすような状態から、全体をぼんやりと照らすようなイメージが近い。

 

そういうモードに切り替えるには、リラックスできる状況下に自分を置けばいいのだが、なかなかそれは難しいだろう。だから疑似的に再現すればいい、となる。

 

それこそ、繰り返しになるが、【なにもしない】ということだ。特に何にも集中せず、例えば呼吸とか外の景色とかにぼんやりと意識を向ける。

 

そうすることで、たとえ睡眠を挟まずとも、記憶に定着できる可能性が高まる、ということなのだ。ちなみに、単に休息としても、効果はかなり高いのだという。

 

・・・となれば、ちょっと思うことがある。

 

別に集中しなくてもいいモードに切り替えられさえすれば、なにもしない必要はないのではなかろうか?

 

続いては、この仮説について思うことを書いてみる。

 

想像のつかない世界に触れるということ。

 

「集中」の対義語を辞書で引くと、「散漫」か「分散」とあった。前者にはネガティブなニュアンスが感じられるが、この二語は本質的には似た意味なのだろう。

 

さて。ぼーっとすること、【なにもしないこと】とは、心ここにあらずという状態だと思う。いわば、目の前のこと以外のなにかに思いを馳せている時間だ。

 

ここでふと、その感覚に近い状態になる時間を思い出した。それは、極めて論理的あるいはテーマが壮大な本を読み返すことである。

 

例えば、【決断力】【大局観】【サピエンス全史】【素数の音楽】といった風に、目に見えないのに存在する、ある種巨大な世界を文字にした本が、僕の言うそれである。

 

ここまで書いたところで、ふと少し疲れを感じたので、おもむろに大河の一滴を読み返してみた。

何か熱意迸る文言があるわけでも、現実社会に即応用できる実践的な知識が書いてあるわけでもなく、こちらに語り掛けるように、筆者の論が進む。

 

その文章の中に、仏教的な教えや親鸞の思想と話も出てきて、論理的な書き方と相まって、気付けば意識がふわーっと、ぼやけて広がるような感覚があった。

 

大体50ページくらい読んで本を閉じたのだが、今は驚くほど頭がクリアだ。【なにもしない】に代わる方法の端緒を、掴んだかもしれない

 

もちろんこれはあくまでも仮説の域を出ない。例えばこれが、学習直後に機能するかなど、試すべき場面はまだまだ残っている。

 

しかし、【なにもしない】以外にも、なにもしない状態に入れそうな方法がありそうという期待だけでも、得られるものは大きい。

 

皆様も疲れを感じた際は、あえて目に見えないけど存在する別世界を考えてみるのはいかがでしょうか。

 

ってことで今日はこの辺で。

 

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