精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

「宇宙からみれば、お前の悩みなどちっぽけなものだ!」という助言は、半分そうだけど半分違う説。 ―実際は、もっと深い話だと思うのですよ。

痛風で足が痛いとき、ふと「カール5世」という名前を思い出した中元です。時空を超えて、なぜそこに至ったのかは謎ですが。

 

はい。突然だが、「宇宙からみれば、お前の悩みなんかちっぽけなものだ!」というアドバイスを、したりもらったり聞いたりしたことはあるだろうか

 

今さら語るまでもないが、宇宙ほどあまりにも巨大で、あまりにも果てしなく、そしてあまりにも人智を超越しつつも、確実にそこにある存在は無いのではと思えてくる。

 

そういう圧倒的な存在の時間軸で物事を見つめれば、人間など塵芥にすらならない存在であり、それらが抱えるちっぽけな悩みなど、本当に小さなものだ。

 

―という風なニュアンスの助言ではないかな、と。確かに、ブレている心を鎮めるために、そういった存在に思いを馳せることは有効だと思う。

 

ただそれは、別に宇宙じゃなくても構わないし、さらに言えばそのやり方を間違えると、逆に悩みが増大するリスクもあるわけで。

 

だから僕は、「宇宙からみれば、お前の悩みなどちっぽけなものだ!」という助言は、半分そうだけど半分違うと考えている。

 

今日はそんなお話をば。

 

 

抗えぬ自然に溶ける、自分という存在。


まず認めたいのは、「宇宙がどうこうとか関係なく、この問題は俺にとっちゃちっぽけなんてもんじゃなくて、本当に重大なことなんだ!!」という思考のクセである。

 

僕もそうだが、人は悩み事について、過大評価をしがちな生き物なのだ。

 

家にカギをかけたか、あの発言は変なメッセージを含んでなかったかという不安・心配事は、地球環境問題に勝る、という方も多いだろう。

 

だからこそ、工夫ゼロで「宇宙からみれば、お前の悩みなどちっぽけなものだ!」と伝えても、本人がそれで何かを解決することはないとみて間違いない。

 

―だが、この言葉は結構大事な真理も含んでいる。受信側がそれを知っていれば、あるいはいう人がそれもセットで説明できれば、この言葉は金言に変わるだろう。

 

続いては、そんな話。

 

"諸行無常"の心持で現状を考えること。

 

悩みに囚われている状況を、僕は最近、「ある対象について極端にピントが合った状態」と呼んでいる。

 

それにしか意識が向かないとは、それ以外の情報を丸ごとカットしているのに等しい。その状況で固定されている状態は、ある種バグったカメラと同じだ。

 

だからうまいこと、ピントを外し、どんどん視野を広角にしていくような考え方が必要になる。

 

ネガティブ思考は数秒でも意識を外せれば極端に弱まるのは、結構有名な事実であるからこそ、なおのことである。

 

そこで使いたいのが、想像が及ばない程桁外れなテーマに思いを馳せるということである。自分にはどうにもならないものに意識を向けると、どんどん意識が拡散する。

 

長大なロジックで構成されていたり、どこまでも抽象的なテーマを扱う学問だったり、想像上でしか存在しない物語であったり、そういった話。

 

宇宙というのは、その一つなのだ。宇宙のことに思い巡らせることが好きなら、そうすればいいというだけの話なのである。

 

数学が好きなら、数学のことを考えればいい。古代生物が好きなら、それでもいい。西洋史とか美術が好きなら、それでもいい。

 

そうやってある種巨大な流れに身を任せるように、連綿と続いてきた人類の活動とか、別世界の存在とかを、ただぼーっと考えてみる。

 

気付けばネガティブ思考からピントが外れ、ある種凪いだ状態に戻っている。思考のコリが解れるとでも言おうか、新しいアイデアもここから生まれやすくなる。

 

"諸行無常"。この時間を過ごしているとき、この言葉が自然と頭に浮かぶ。面白い時間なので、ぜひ試してみてほしい。

 

わからないものをわからないままにしたまま考え続けたい。

 

こないだ「青空文庫」で方丈記を見つけて、授業と授業の空き時間にざっと読んでみた。

www.aozora.gr.jp

 

いわゆる「無常観」をテーマにした本だとは知っていたが、その内容をじっくり読んだことはこれが初めてである。

 

そして書かれていることが、思った以上に【無常】であることに驚いた。豪華な家が何になる?財産を貯めて何になる?栄華を極めて何になる?

 

火事が起こればどんな建物も灰燼に帰すし、疫病が流行ればどんな立派な人も亡くなってしまう。そういった事象が無くても、人間みな、最後には死んでいくだけだ。

 

では、一体どう生きると、一番豊かになれるのか。それについては、「答えが出る前に人は死ぬよね」みたいなことが書かれていたのが、一番刺さった。

 

そんな問いすらも、歴史からすれば結局のところは刹那的なものであり、固執するだけバカバカしい。そんなメッセージを感じた。

 

永遠から始まり、永遠の中に還る。五木寛之氏の「大河の一滴」にもそんなフレーズが書いてあり、なんとなく言いたいことはわかるが、理解は”なんとなく”が限界である。

 

わかりそうだけど、わからない。でも、全くわからないわけじゃない。

 

僕は今までこの状態を嫌っていたが、今は意識して、これを「よし」としてみようと思う。答えが無い状態でも、許容してしまうのだ。

 

答えが出ないことを考えてみると、目先の課題からは距離を置くことができる。距離さえ取れれば、正確な姿を見ることができる。

 

どんなことに取り組むにも、この心がけは大事なのではと思う。フォーカス機能がぶっ壊れていたら、何も見えなくなってしまうのだ。

 

ということでえらい抽象的な文になっちゃったけど、今日はこの辺で。

 

にほんブログ村 教育ブログへ
にほんブログ村 にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村 ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村