夏が終わろうというタイミングなのに、残っててもったいなかった除毛クリームでつんつるてんになった中元です。
はい。ここ最近わけのわからない記事を書いていることから察せるが、意識的に自分が知ってると思っていることに、「本当か?」と問う習慣をつけている。
例えば、今まで100回以上教えてきて、完全に型ができた不定詞といった英文法についても、「本当にこれが最善なのか?」と自問する。
これはなにも単なる自己否定ではなく、さらにより良いものを創ったり、もっといい方法の検索に目を向けたりするための、ある種の儀式に近い。
言い換えれば、積極的に【I don't know.】を認めるということでもある。今日はそんな話をば。
「わかった」瞬間、成長は終わる。
塾講師という職業は、「わからせること」が全てという印象がある。
プロ野球選手が一定以上の確率でヒットが打てるのと同様に、僕らも一定以上の確率で生徒にわからせることが、プロとしての最低条件となるわけで。
しかし最近やはり思うのだが、「わかった!」状態は、手放しで喜べるものでもない。なぜかというと、それこそが硬直マインドセットの始まりに見えるためだ。
たしかに、わかった状態は気分がいい。霧が晴れたかのようなすっきりとした感覚が広がり、何なら高揚感さえ湧いてくる。
長い時間取り組んだ問題が解けたときなんかは、猶更だ。だからこの感覚をたくさん、そしてできるだけ長く積ませようと頑張る講師もいる。
―だが、今なら思うが、「わかった」状態など本当に点のような時間であり、すぐさま次の問題が発生する方が自然なのだ。
例えばバスケの試合で点を決めた際の、刹那的な感情。それが、「わかった」状態に似ていると思う。点を決めても、試合はまた始まり、続いていくのだ。
そうやって、「わかった!」瞬間をプロデュースしつつも、そこで満足させず、次の問いをしっかり用意し、グルグルと回していくこと。
ここ数年はこの流れが僕の授業におけるテーマなのだが、まだまだ輪郭すら朧気という状態だ。言語化するためには、あと何サイクル、問いと検証が要るのだろう。
・・・ところで、タイトルに書いた【I don't know.】についてだが、これは元々、【Think Like a Freak】という洋書に書いてあったフレーズである。
柔軟な発想を殺さず、身近なことに疑問を持つ。このために必要な心構えとして紹介されていたのが、「臆せずに"知らない"ことを認めよう」といった言い回しなのだ。
僕自身自省することもまだ多いのだが、変なプライドを持っている人ほど、「知らない」ことを頑なに認めない。つい「知ってる」と言いたくなる。
ひどい例だと、自分が正解であるとしか考えられず、それから外れた周りの人間が不正解という風に解釈する例もある。この人の成長は望めないだろう。
その根底にあるのは、おそらく「恥」の感情だ。例えば授業中に指名されて、答えられずに笑われる。そういった原体験があると、確かに「知らない」というのは怖い。
しかし、「知らない」ことを認められないというマインドセットである限り、そのうち「自分は何がわかっていないのか」さえ、まったく見失うこととなる。
勉強を頑張ろうにも、起点に当たる部分を閃くことさえできなくなるのだ。実力テストの点が悪いけど、何をすればいいかわからない、という風に。
【I don't know.】は悪いことではない。むしろ純粋な問いの始まりだ。そこに恥の感情が強くくっついた状態は、なにかエラーが起きている。
そのためには、積極的にそれを肯定する姿勢と、そうすることで得をするという生身の話を、如何にこちらが提供できるかにかかっている気がしてならない。
間違えることを心のどこかで悪と考えている教師に教わると、おそらく自由闊達な意見が生徒から出ることは見込めないのではないだろうか。
ただ、かくいう僕自身、心身に疲労が溜まっているときなんかは、生徒の間違いをフォローしきれない場面もある。その都度、結構な自己嫌悪に陥ってしまう。
しかしそこからまた、「じゃあ今度はどうしよう」という風に、次の思考へ切り替える。そうすれば、今よりはマシになるはずだ。
【I don't know.】を認めると、成長が始まる。この話、後期もガンガン、生徒に伝えていくこととしよう。
では今日はこの辺で。