精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

本当に頭が良いヤツは「あれ」ができますよね。 -論理的思考力・クリティカルシンキング・達観・計算全てを要する「あれ」が。

1週間停滞した体重が、急に1㎏ストンと落ちて、また停滞した謎の体質中元です。人体って面白い。

 

はい。厨二病を患っているため、時折「頭がいいヤツとはどんなヤツか」というのをよく考える。

 

その正体を掴んで自分がそれに近付きたいという下心というより、単純に「このテーマの言語化って結構難しいよな。もっと考えてみよう」という純粋な暇つぶしに近い。

 

やはり、「頭が良いヤツ」を一言で定義するのは難しい東大生はプロの棋士より頭がいいのかという問いに、果たしてどこまで意味があるのかを考えてもわかる。

 

或いは逆に、アメリカで時折事例があるのだが、チェスのグランドマスターレベルだが、方程式が解けない中学生は頭が悪いのか、という問いも似たような感じである。

 

この辺りについてすごく抽象的に言うと、思考のみを用いて優劣を決めるルールの世界において上位に立つ者を、「頭が良い」と呼んでいる気がするわけで。

 

つまり、勉強ができるやつは、勉強というルール(あるいは競争)の中で上位に立っているから、頭が良いと言われているという話なのだ。

 

だが、勉強ができれば、無条件でその他の似た競技も得意かと言われれば、必ずしもそうではない。だからこそ、他の領域とそのまま比較しても、意味はさほど無い

 

例えば、「早稲田在学の生徒と、格闘ゲームでプロ級の腕を持つ中卒のどっちが頭が良いのか」という問い。

 

これは、「サッカー選手と野球選手、どっちの方が運動神経がいいのか」を尋ねるのに等しいとさえ考えている。まるで意味のない質問としか思えない。

 

―だからさらに考えた。もっと普遍的に通じる、「頭が良いヤツ」の共通点は無いものだろうか、と。

 

そして一つ、自分なりに気付くところがあったので、今日はそんなアホな話を、クソ真面目に論じてやろうと思う。

 

 

論理的思考力・クリティカルシンキング・達観・計算全てを要する「あれ」ができれば、おめでとう、「頭が良い」人です。

 

本当に頭が良い人は何ができるか。僕は、言葉は悪いがイカサマ」だと考えている。尚、この言葉がどうにも嫌な人は、以下の類語の好きなものを選んでほしい。

 

謀略、計謀、詭謀、謀計、いんちき、奸計、トリック

 

・・・どの言葉も侮辱の色が強い。これは恐らく、こういった行為を食らった側は、基本「やられた!」という悔しさを覚えるからではないかと思う。

 

だからこういう「よくないもの」という意味を帯びた言葉を作って定義し、人がなるべくそうしないように教育している・・という側面もあるように思える。

 

ところが、【Think Like a Freak】といった本でも書かれていたが、イカサマをするためには、その対象をどこまでも深く、多角的に理解する必要があるものなのだ。

 

特に合法の範囲内で抜け道を見つけ出すような方法がその極みである。なにもイカサマはすべて、違法行為とは限らないのである。

 

レースゲームでショートカットをするためには、誰よりもそのコースを理解する必要があるのと同じで、非常に知的な行為と言えるっちゃ言えるわけで。

 

さて。頭が良い人はインチキができる。すると、どんないいことがあるのか。ここもまだまだ仮説立てが必要なのだが、僕は人の目から自由な人生だと考えている。

 

少しセンシティブな話題だが、「コロナ禍でのイベント」を例に考えてみたい。

 

「ウィズコロナ」の話もやっとこさ出てきたが、その実は北米諸国に比べればまだまだギチギチであり、日本の風土もあって、僕はこの状況は常態化すると考えている。

 

つまり、日本においてマスクを外すというのは何か特別な、やましい行為になるという話だ。誰かが「スカートの中を見せるようなもの」と表現していたくらいである。

 

さて。僕が思う頭が良い人は、この状況下で為政者に対し不満を言うことはしない。その代わり、課されたルールや現状を、徹底して分析にかかる印象だ。

 

「とっとと人が集まれるようにしろ、無能な政治家!!」と憤るのではなく、逆に「どうすれば、ブーブー言われずに集まれるか」を考える

 

そのためにはということで、各種ガイドラインを徹底して分析し、熟読し、そこになにかしらの抜け道が無いかを必死で探すのだ。

 

ないならないで、自分の目的を変えたり、ぶっちゃけグレーな決めごとをしたりして、徹底して叩かれる行動を避け続ける。

 

そうすることで何ができるかというと、「はいダメー」と言われて「なんだよぉ!」と怒る人をしり目に、自分はしれっと目的を達成できるというわけだ。

 

つまり、自由な人生である。法律なのか、ただの不文律なのかを明敏に嗅ぎ分けて、違法でさえなければ自分の目的達成のためにガンガン進む。

 

勢い余ってそれが詐欺とかになれば考え物だが、そうでなければできる人がトクし、できない人は「残念でした」で終わりなのが世の中だと思う。

 

自分を取り巻く状況に対し憤りを感じたとき、僕も「抜け道はどこかな」と考える癖をつけたいものである。

 

「頭が良い人」の考え方を疑似体験したければ、心掛けたい方法まとめ。

 

この項はまだまだアバウト極まりない仮説なのだが、上記の頭が良い人はどういう思考プロセスなのか、僕なりの考えをまとめたい。

 

まず共通点として浮かぶのは、非常に大局観が優れているという点だ。例えばホットな話題について、メディアで喧伝される"そのまま"で考えることは、まずない

 

因果関係はもちろん、過去や未来、その他の人物相関などはどうかという側面に注目できる人は、すごく頭が良いと思ってしまう。強く尊敬してしまう。

 

だからこそ、他人が急場と思える部分にフォーカスして盛り上がっている間、別観点からそれを俯瞰し、様々な問いを立てては検証し、理解をどんどん深めていく

 

そしてしれっと抜け道を発見し、人がルールの策定者にぶつぶつ不平を言っている間に自由を謳歌する。なんとカッコイイ!僕はそう思ってしまう。

 

後は、自分の目的や現状、抽象的な言い回しなどを明瞭化・言語化することが極めて上手というのもある。

 

そうやって明確に立ち位置を理解しているからこそ、ルールのギャップに気付いたり、理想とつなぐ部分を考えられるのだろう、と

 

いわば、将棋の詰みの形を理解しているからこそ、その途中にどういう手を選ぶべきかが見えてくる感じに似ている。

 

ホットなトピックほど、焦点を合わせず、広く見て考える。意識的にせよ無意識にせよ、頭が良い人はこう言う考え方ができる人。

 

僕は今のところ、そう結論付けている。

 

終わりに。

 

現状に不満を表明し、意見を同じくする者同士で団結し、ルールを作った側に改変を迫る。デモ行進しかり、ハッシュタグしかり。

 

しかし僕が知る限り、それが何かしらの結果を生んだ例を知らない。全体のルールが変わるのは、悲しいかな、何か事件や事故が起きたときくらいなのだ。

 

自由な人とは、違法でない限りはルールを無視するか、同調圧力を跳ね返すか、あるいは抜け道を見つけて堂々と楽しむか、そのどれかができる人だと思う。

 

そんなことをすればその人は孤立していきそうなものだが、不思議なもので、そういった人たちが孤立していくことの方が少ない

 

不良がわかりやすい例だ。一人だけヤンキーをやって、浮いている例は意外と少ない。大抵、似た価値観を持つ仲間がいるものだ。それに通じるものを感じる。

 

人が誰かを「頭が良い」と評するとき、もしかしたら、自由に生きていることを羨むという潜在意識がそこにあるのかもしれない。

 

そんなことを思った。

 

ということで今日はこの辺で。

 

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