ご飯超大盛と焼き肉を吐く寸前まで食ったのに、翌朝の体重が増えも減りもしなかった不思議な生き物、中元です。
はい。最近また自分の中に、喉の奥に刺さった魚の小骨のような言葉が増えてしまった。
その言葉とは、「チームで成果を出すべきだから、会社としての決定は、たとえ上司が消極的でも、部下が実施しフォローせよ」という具合だ。
・・・この言葉に僕は最初、怒りを覚えた。だが、僕の大事にしているもののうち、何が毀損されたから怒りを覚えたのだろう。
そんなことを考えている間に突発的なイライラは治まったのだが、その言葉に感じた違和感は一向に消えず、言葉にもできず、ずっと喉の奥辺りでわだかまっている。
―それでもしばらく考えたら、段々と言葉にできる部分が増えてきた。同時に、これは僕が作りたい組織で蔓延させてはならない思想だとも思えてきてしまった。
僕は意識して、リーダーシップ神話を破壊し、葬りたい。その被害者の、一人として。
今日はそんなお話である。
能力がある人がリーダーになれる確率は低い。
リーダーになれる人は、能力があるからなれるのだろうか。実をいうと、必ずしもそうではない。
例えば【なぜ、「あんな男」ばかりがリーダーになるのか】でも指摘されていたが、リーダーになれる人は、単にリーダーっぽく見えることが理由なことも多いそうである。
では、リーダーっぽさとは何か。誠実性?チームメンバーの声にきちんと耳を傾けること?-それらもないことはないが、決め手に欠けるそうなのだ。
最たる条件とは、声が大きいこと、意見を変えないこと、カリスマ性があること、等だ。
いわば、ジャイアンのような人は、能力はさておき、リーダーになりやすいと言える。
逆に、誠実性や協調性、内向性といった要素は、「女々しい」とかそういった風に、「リーダーに相応しくないよね」という先入観を持たれやすくなるらしい。
これらの要素”こそ”、様々なビジネス書等でも手垢だらけになっている、本当にリーダーになるべき人の条件なのにも関わらず。現実とは本当に不可解である。
・・・では、実はリーダーとしてのこうした適性があっても、カリスマ性に欠ける人は、どうすればいいのか。
これはもう、声ばかり大きい人の腰巾着として出世していくか、独立するかという方法が、一番確実な昇進の術になってしまうようなのだ。悲しすぎる。
特に組織の風土として、「リーダーに相応しい人間は、俺の頭にピンとくるんだ!」といった感じのが蔓延しているなら、もう諦めた方がいいかもしれない。
能力や適性があっても、リーダーになれる可能性は、声の大きい人がいる限りは得てして低め。
僕が時折ぼやく、態度は成果に勝るという言葉の真意は、実はこの辺にあったりする。
リーダーっぽく見える人の、ダークすぎるサイドの話。
リーダーっぽく見える人。もちろんそれに付随して、管理とか統率といったスキルがあれば言うことなしなのだが、実はそこにはあまり関係が無いのだという。
自己演出が上手な人と、実際に組織を率いることができる人は、別物だ。ベン図で言えば、端っこ同士がわずかに重なっている程度なのだという。
その中にも特にマズいのは、いわゆる自己愛とサイコパスだ。この厄介な性格は、カリスマ性や魅力という要素に、かなり近いところにある。
自信に満ちて、堂々と意見を発信し、大きな目標を何恥じることなく発表する。周りを巻き込む力と、自分を魅力たっぷりに語る天性のスキル。
なるほど、確かにリーダーに相応しく見える。こういう人が率いる組織はさぞ強く、率いられる部下たちはなんと幸福なことか。そんな風に。
しかし、そのスキルを持つ人は、それしかできない可能性もある。というより、それしかできない可能性の方が高い。
計画は作るが、地道な努力ができない。夢を語るが、手柄を独占したい気持ちが強い。成長したいと言うが、進言には徹底して反発する。
こういった、ダークすぎるサイド。最近こそ知名度が高まってきたが、逆に言えば最近まで認知されてなかったため、これが蔓延している会社や組織が非常に多いのだ。
長年醸成された文化を変えるには、正直、ある種の革命を起こすしかない。破壊か創造。どちらかだ。
色々な場面場面で痛い目に遭ってきた僕だが、自分がその立場を得たときに、似た行動を取らないという保証はない。僕は僕の意志力すら信じていない。
これを防ぐためには、やはりシステムありきだ。これは永遠の宿題だと腹を括ろう。
【ハロー効果】に気付き、歪んだ潜在意識を正せるか?
感情や意識に大きな影響を及ぼし得る認知バイアスとして、最近【ハロー効果】に興味を持ち、勉強するようにしている。
簡単に言えば、ポジティブな一要素に影響を受けて、その人の他の全ての要素を、好意的に考えてしまうというバイアスである。
例えば東大卒と聞いたらそれだけで、人格者で、かっこよくて、スマートで、高収入で、モテモテで、仕事ができるという先入観が作られるように。
それは、いわゆるカリスマ性を持つリーダーについても同様である。【リーダーなのだから、この人は優れているはずだ】というバイアスが掛かりやすくなるのだ。
この【ハロー効果】の存在は、しっかりと理解し、掴んでおかないと、特に部下が、カリスマリーダーの下で不適切な評価を受けてしまうという可能性がある。
良い成果を部下が出しても、「さすが〇〇さんの部下だ!教育がなってる!」と評されたり、悪い成果を出したら、「〇〇さんのチームなのに情けない」と言われたり。
リーダーが正しいという前提から始まる周囲のイメージは、本当に厄介である。(逆に言えば、この辺の自己演出に長けた人は、リーダーとして安泰となる)
そしてこの先入観は、部下の昇進だけでなく、上司の降格も可能性や選択肢から消し去ってしまう。
例えば、会社がある人物を昇進させた後に、なんだかんだでその人が強い自己愛を持つとかが判明して、リーダーとしての資質に疑問が出た場合は、どうなるか。
普通は、「じゃ、やり直してください」といった風に降格するべきという感じがするのだが、基本は放置が多いそうだ。
何故かというと、降格人事をすれば、その上司を選んだ人を遠回しに毀損することになるからだ。そしてその選んだ人とは、さらに上の立場の人たちであることが多い。
上の立場の人たちが選んだのだから、正しいリーダーに違いない。だからそれを信じて、もう少し待とう・・・。
こうなるともう、お先真っ暗である。ぶっちゃけ僕自身、組織内で時折、この【ハロー効果】が働いていることを、諸先輩方の口ぶりから感じることがあるわけで。
その人の仕事がおざなりになっても、「忙しいから仕方ない」と評されて、「フォローしない君も悪いよ」というまさかの注意に繋がるように。
そして僕がフォロー(という丸投げ)に徹しても、全体的な評価はリーダーに帰する。こういう歪な状況は、外野から見れば異常でも、内側からみれば日常なのだ。
授業の合間合間にチャイムが鳴る環境が特異であることは、学校という場を離れて初めて気が付くのと似ている。
この辺りのバイアスには、気づくことがそもそも難しい。だから意識に頼らない方法で、これに対抗する必要がある。
ある種今の状況は、そのための観察の絶好の機会と言えるだろう。そこは前向きに、そしてどこか面従腹背の心持で、楽しんでやりたいと思う。
終わりに:愛あるワンマン経営とは?
しかし、最初からリーダー不在の組織を創ったらどうなるか。今風に言えば、DAOという感じか。
色んな実験が世界規模で行われているようなものだが、どうやら無工夫だと上手くいくことはないというのが、今のところの解答であるという。
何をすればいいかわからない。何を目指せばいいかわからない。どこまで許容されるかわからない。自由とは、どこまで行っても不安とセットなのだ。
そこを考えると、やはりリーダーは必要らしい。ただ、カリスマは要らない。安心してそこに属する人たちが、好きなことをできる環境を創れる人。
それが、新しい時代のリーダーになり得るそうなのだ。ずっと勉強し続けているコミュニティ論に通じる要素を発見した気分だ。
齋藤一人さんや、そのお弟子さんの著書を読んでいると、スタートアップの会社こそ、【愛あるワンマン経営が大切】ということが繰り返し説かれていた。
良いことは強制し、状況に応じて変化と実行、検証と修正を目まぐるしいサイクルで回していくこと。これが大切だとあった。
この考え方は、【リーダーの仮面】にも書かれている。リーダーの役割は、仕事を明確にして、実行させて、規律を作り、目指す目標を示すこと。これに尽きるのだ。
偉くなったわけではない。決して、ないのだ。リーダーは単なる役割であり、何かしらのブランドではないのである。
しかし無機質になり過ぎても、チームとしての”楽しさ”とかは生まれないだろう。【愛あるワンマン経営】とは、こう考えると非常に腹落ちする言葉である。
―ということで僕は、これからもこの辺の人間心理をつぶさに観察し、リーダーシップ神話の化けの皮を剥ぎ、葬ることを目指したいと思う。
また何か言葉にまとめられそうな教えを見つけたら、シェアしたいと思う。
では、今日はこの辺で。