精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

全てのインプットや学びは、【作品に触れることで始まる】説。

ある種心の奥底に封印していた夢、オーストラリアに行くことを、自分の中で実現を目指す目標に落とし込もうかと考えています。中元です。

 

はい。もう何度目の紹介かわからないが、やはり【観察力の鍛え方】が面白い。面白過ぎる。もう5週目くらいに入ったのだが、学びが都度、増えていく。

この影響もあり、最近はいっちょ前に【芸術】なんてのに興味が出てきたという話は、いつぞや記事にした。(とはいえ絵画と小説以外はあまりピンとこないのだが)

 

画家や筆者が込めたメッセージは何か?散りばめられた工夫は何か?そういうのをディスクリプションしながら絵を見る時間が、結構好きになってきたのだ。

 

―そうやって作者が詰め込んだ想いを汲み取ろうと悪戦苦闘しているときに、ふと逆の問いが頭に浮かんできた。

 

「では逆に、どうすれば、こちらの伝えたいメッセージを、きちんと作品に織り込むことができるのだろう?」

 

―そして意外なことに、このことを考えてみると、本来の【学習】の、最も根源的な動機に繋がるヒントになりそうという感覚があった。

 

言い換えれば、言われてやらされる勉強と、知りたいという熱意や必要性に因る学習を分ける何かが、そこにあると感じたわけで。

 

今日はそんな仮説をベースに、ひとつ記事をこさえてみよう。

 

 

よりよい作品に仕上げるためにはどうすればいい?

ラス・メニーナス - Wikipedia

 

僕自身の心に強く残っている絵の一枚に、ラス・メニーナスというものがある。巨匠ベラスケスの最高傑作とも呼ばれる作品だ。

 

実物を見たことは無いのだが、単に圧倒的な画力があること以外に、そこに込められた裏話を知ると、感じ方が大きく変わるのがその理由だ。

 

例えば、この絵は国王の目線で描かれているとされる。絵を見ている自分が国王その人なのだという観点に立つと、登場人物の動作・目線・しぐさの印象が変わる

 

真ん中の侍女がお辞儀をしているのは、こちらに対する敬意だろうか?キャンバスに絵を描いている画家が手を止めてこちらを見ているのも、意味があるのだろうか?

 

そんな風に。もちろんベラスケス本人がどこまで意図したかはわからないが、僕には想像もつかないほどの膨大な観察が、この絵の裏側には隠されていると感じている

 

―同様に、似た感想を、様々な漫画のファンブックや設定資料集を読むたびに僕は抱く

 

適当なデザインや物語など何一つなく、例えば衣装一つとっても、隠されたメタや、後々暴かれるストーリーの伏線になっているなど、工夫が尽きることが無い。

 

荒々しいキャラクターを作り込むために、とある戦国武将の生き様を深く学習する人もいる。歴史的資料から漏れた感情さえも、拾い切ろうとする努力。

 

"作品"とは、膨大なインプットと、問いと、仮説の結晶なのだと改めて気付かされる。30歳を過ぎてからそれに気づき、退屈だった芸術鑑賞が楽しくなったのだ。

 

―となれば必然的に、「作品を作ろうと思ったら、自然と膨大なインプットを行うようになるのでは?」という仮説も浮かんでくる。

 

まだまだ問いの入り口にたっただけの状態だが、面白い着眼点ではなかろうかと、既に独り言ちてはいるわけで。

 

続いては、そんな話を書いていこう。

 

リアリティとは、膨大なインプットのネットワークが織りなす模様のようなものだと思う。

 

自分が伝えたいメッセージ云々の前に、物語や絵画、彫刻として形にするためには、やはり情報・知識が必要だ。

 

「要る」とわかっている学習は、強い。自発的な動機に基づいた勉強は、そうそう折れはしない。

 

例えば、鎌倉時代とは何かという説明を受動的に聞くのと、それがどんな時代だったのかを問いありきで自ら調べるのとでは、その効果に天と地ほどの差があると思う。

 

鎌倉時代をテーマにした絵を描くためには、武士の鎧の精緻なデザインを知る必要がある。彼らの思想や価値観をうかがい知る必要もある。

 

もっと言えば、立たせても違和感のない背景を選ぶため、主に武士が勢力を持った場所の地理を知る必要だってある。

 

こうして深掘りをすればするほど、無味乾燥な教科書の語句の暗記的な勉強に、"意味"と"好奇心"と"問い"が乗ってくる

 

そうやって様々な知識を数多張り巡らせてネットワーク上にすることで、ある種の模様のようなものが出来上がってくるのでは、と感じている。

 

その模様こそ、僕はリアリティの説明だと今は考えている。インプットを繰り返すことで、凡庸になるのではなく、逆に強い個性になるのでは、と。

 

もちろん、自分にとって強い学習の起点になるテーマに出合えるかどうかは、かなり運の要素が強いのだが、別口の視点ということで覚えておくのはありだと思う。

 

終わりに:では、私塾でそれをどこまで推すか?

 

私塾とは本来、受験への合格や定期テストの成績向上がメインであるため、そのための最速・最短の方法を追求するべきというのが基本原則である。

 

僕もそこからは逃げるつもりは無いし、むしろ誰よりもシビアにここへ向き合っていくべきだという覚悟はある。

 

しかし、だからといってここまで書いた仮説全てを無視するのも嫌だと考えている。僕の理念は、「仮説を通じて学びを楽しみ、問いを通じて学びを共有する」ことだ。

 

・・・この言葉もまだまだ佐渡島庸平氏の受け売りなので、もっと僕の臓腑に、僕の言葉で落とし込む必要はあるのだが、そのためには、ある種ウェットな教えも必要。

 

塾としてのミッションと、個人としての理想を、どこまで折衷させていくか。

 

結局また無理難題に着地してしまうのだが、本来これが問いと仮説と観察の正しいサイクルなんだと受け入れて、考え続けたいと思う。

 

では今日はこの辺で。

 

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