理科の勉強が新たな鬼門に差し掛かりました。それは【天体】。宇宙は好きなのに宇宙からは好かれていない片思い中元です。
はい。この仕事をしていると、やはり向き合わねばならないのが、生徒一人一人が抱えている【不安】である。
特に受験まで半年を切った今、目指すべき目標と現状との差、自分の才能の限界など、現実が容赦なく突き付けられる度に、心が揺さぶられるのは仕方のないことだろう。
そういった不安を吐露されるたび、それを慰める術を持たない自分が口惜しくなる。
心の底から「大丈夫!」と言って背中を叩いてやることもできないし、だからといって徹底して傾聴するほどのスキルもない。
そうやって悶々としていたら、あることに気付いた。そもそも論、僕は【不安】という対象について、何の知識も情報も思索も持ち合わせてはいない。
全く勉強したことのない、名前をかろうじて知っている程度の単元の質問を生徒にされて、それに答えられず頭を抱えているのと同じくらいアホな話だ。
やはり僕は、こういったところから始めるのが良いらしい。ということで今日は、【不安】について、その正体を知るべく調べまくったことをまとめてみる。
【不安】とはどのような感情なのか?
まずは辞書を引いてみたのだが、かなりあっさりとした説明がそこに書かれていただけであった。
気がかりで落ち着かないこと。心配なこと。また、そのさま。
"心配""憂い"という語句に置き換えても、やはり非常に抽象的であり、「なんかよくわからないけど、とりあえず落ち着かない」程度の印象しかつかめない。
そういえば、【不安】についての考察や印象を本で読むたびに、ある程度これと似たような解釈を目にする。
例えば大局観という本で羽生善治氏は、「不安とは対象の正体がわからないからそう感じるだけであり、実体は特にないのでは」と仮説立てている。
また別の西野亮廣氏は、「不安を感じる理由は情報不足だから、とっととデータを集めたり行動したりすれば消える」という風に解いている。
こう考えていくと、【不安】とは、わからないことへの恐れがその正体であると、そういう風に思えてくる。
実際に感情を細かく分類した、非常に示唆に富んだ表があるのだが、それを見ても「なるほどなぁ」と考えさせられる。
【不安】とは、わからないことに注意が向いている状態。そしてわからないものに人は、本能的に【恐れ】を抱きやすい。
例えば幽霊は、見た目が怖いだけではなく、正体が全くわからないからこそ、あそこまで怖いのだ。そう考えると、なるほど、腹落ちする理解は得られた気”には”なる。
―しかし、待てよ、と。
【不安】とは情報不足を意味するのだから、データを集めたり勉強したりして、その辺を埋め合わせれば弱まるはずだ。
この論理自体は、至極その通りである。しかし、それでは説明が付かない部分も存在する。
それは、未来と他者の腹の中だ。自分のコントロールが到達不可能な部分は、情報を集めても行動をしても、一向にその輪郭が掴めて来ない。
永遠にわかることがない対象。こういった物には、一生【不安】を抱くしかないのだろうか?それ以外に対処法は無いのだろうか?
・・・ここを考えるためには、歴史の中で、ここに向き合ってきた人たちの言葉を手掛かりにするのがよさそうだ。
長い時間を掛けて積み上げられた思索の中に、答えは無くても、せめてヒントはあるだろう。そう信じて。
ということで続いては、【不安】に対し、真正面から考えを深め続けた人たちの言葉を基に、更に腰を据えて、向き合ってみようと思う。
【不安】と哲学と仏教と心理学。
【不安】について、当然ながら様々な思索はすでに何千年と行われてきており、膨大な数の考え方や解釈に触れることは、そこまで難しくなかった。
しかし、だからこそ、それらをまとめるのはかなり難しかった。そのためここはちょっと煩雑な項になってしまうと思う。散文的だが、ご了承いただきたし。
さて。【不安】について検索をかけると、真っ先にヒットしたのは、キルケゴールという哲学者であった。
彼は【不安】を「自由のめまい」と形容した。なんでもしていいという状況は、かえって"なんとなく淋しい"という【不安】を生む。彼はそれを、"絶望"と呼んだ。
この絶望から脱するには、それを自覚しながらも、必死で前に進むことや、信仰という自分をぶれさせない芯を見つけることが要。そのような主張をしていたという。
また、彼の考えを受けて、更に話を進めた人物に、ハイデガーという人もいる。
彼は"どうにもできない"不安を打破するには、もう”死”という絶対的な終わりを想像することを説いたという。
神よりもある種絶対なのは、自分がいつか死ぬ、終わるという事実だ。これを見据えれば、心は動揺せずに止まることができる。
迷いを断つための、芯に当たるものは何か。これを考えたり探したりすることは、確かに一神教の価値観と、すごく相性が良いような気がしている。
【不安】とは、信仰・死といった絶対的な存在を意識したうえで、己のするべきことを明確にし、行動し続けることで、消える。
そのような主張の共通点を僕は感じた。皆様はどう感じられただろうか。
・・・ところで、【不安】といった心の揺れ動きについて優れた洞察を残しているものと言えば、僕は仏教こそ筆頭だと考えている。
宗派によるかもしれないが、僕が参考にした記事では、仏教における【不安】とは、「求めて止まない心による反応や妄想」とさえ書かれていた。
・・ただし恐らく、少し僕らが使っている「反応」や「妄想」とは意味が違う部分もあるので、ちょっとだけ補足する。
仏教では、本来する必要のない不必要な”反応”を、"煩悩"や"漏れ"と呼ぶ。不必要な反応とは、例えば突然過去の嫌な記憶を思い出して、不快な気持ちになることもそうだ。
そしてこの不必要な反応には、自分や他人の価値をあれこれ考えるという"慢"というものも含まれる。他者比較とは、仏教的に言えば、要らぬ心の反応、妄想なのだ。
こうった不必要な妄想や欲、慢に対し、意識を向けて反応し続けても、人間の心は絶対に満たされることが無い。新たなそれらがまた生まれていくだけだ。
この満たされないサイクルを、仏教では"渇き"や”渇愛”と呼ぶという。渇きを抱くから、無駄な反応をする。しかしそれは、心を満たすことは無い。
その満たされない心が煩悩という形で表れて、それを鎮めるために人は再び"慢"の思考をする。だが満たされた気持ちにはならず、"渇愛"はさらに増長し・・。
この流れをまとめると、綺麗に無限ループすることがわかる。
「求めて止まない心による反応や妄想」→「自分や他人の価値を気にし続ける」→「満たされない渇きを覚える」→「求めて止まない心による反応や妄想」・・・
これは言い得て妙な話だ。しかもその全てが強力な起点になり得る、恐ろしいサイクルである。
特に今は、情報化社会と言われて久しい。四六時中SNSを通じて誰かと繋がり、頼まれてもいないのに、様々な情報を滝雨のように浴びせられ続けてしまう。
現代は、刺激の量が異常なのだ。そのいちいちに反応し続けると、心の何かが歪んでくるのは当然なのである。
―では、この【反応】、つまり【不安】を止めるには、どうすればいいのか。仏教が用意している答えは、自分の内面に向き合い、意識して反応を止めることである。
例えば、「今自分が感じているこの不安は、感覚なのか?感情なのか?それとも、ただの思考なのか?」と問いかけることもそう。
あるいは、「欲張ってないか?怒りの気持ちではないか?ただの妄想ではないか?」という問いかけも有効らしい。
尚、ここで言う妄想とは、まだ起きてない未来についての悲観的なシミュレーションや、過去の黒歴史を反芻することも含まれる。
そういった自分自身の内面や反応を"みつめる"ことで、意識して反応を減らす。無意識下に落ちているあれこれを、意識の部分へ引き上げる。
その上で、例えば自分の身体の反応であったり、取り組むべき作業1つであったり、次にどんな手を打つかであったり、1つだけのことに集中していく。
しなくていい反応をしないためには、自分の気付いていない自分を理解して、一つずつ手放していくことが大事なのだろう。
いわゆるマインドフルネスの原点ともいわれる教えであり、僕自身、言わんとすることが理解できる部分が、多少はある。
キルケゴールやハイデガーとは少し異なり、絶対的な何かを特に定めず、意識して欲を手放していくことで、不安に立ち向かうのが仏教の特徴だと思う。
しかしキルケゴール・ハイデガー・仏教に共通する【不安】への対処策として、集中と行動が挙がっているのは面白いなと思った。
目の前のことに集中し、一点突破で現在すべきことに取り組むのが、ある意味不安に対する万能薬のようなものなのだと思う。
この考え方は、様々な人の言葉の節々に登場するものでもある。何かの真理に触れたような手応え。僕の中で色々なことが繋がる感覚が得られた。いやぁ、濃い時間である。
―ちなみに、これらの思考とは別に、【不安】について少しトリッキーな考え方をした人がいる。それは、アルフレッド・アドラーだ。
彼は、【不安】という感情について、なぜそれが存在する必要があるのかという目的を考えることからスタートした。
【不安】という感情が上回ったとき、人はどういう行動を取るかというと、対象はなんであれ、大半は「逃亡」という括り方ができるだろう。
では、逃亡をすることで、どんなメリットが生まれるのか。それは、自分を守れるということだ。ただし、非常に安易な方法ではある。
得てして、自分に何かしらの判定が下るのは、何かに挑んだ時である。例えばテストがわかりやすい。テストを受ければ、点数の上下や合否の判定が出される。
そして点数が下になったり、不合格となったりすれば、自尊心が大きく傷つけられることとなる。その人にとっては、最悪の結末だ。
では、どうすればそれを避けられるのか。そもそも、そういうジャッジが出される場に出なければいい。他者から評価されることを避ければいい。
避けるためには、あらゆる対象に強い【不安】を抱けばいい。そうすれば、挑戦を抑制するため、自分を永遠に護ることができる。・・・という風に。
アドラーのアプローチは、哲学というより心理学という感じがする。本当の原因を突き詰めて、どこの歪みを直すべきかを明確にするという意味で、新鮮だと思う。
さて。非常に雑多で駆け足ではあるが、色々な【不安】についての考え方をまとめてみた。どれかしっくりくるものはあっただろうか。
もしあったのであれば、その考え方をベースに、独りで時間を作り、じっくりと考えを深めてみることをオススメする。
孤独は真の自分に出会える時間だとも言われる。性格にもよるだろうが、たまにはじっくり思索に耽るのも悪くない。秋の夜長にぜひどうぞ。
終わりに:僕は生徒が抱く【不安】に対して、「こうすればいいよ」というのを止めます。
こうやって【不安】について、色々な情報なり知見なりを集めてみると、生徒への接し方について別観点から考えられるようになってくる。
例えば無理矢理「これが答えだ!」と示すのも微妙で、無責任に「大丈夫!」と背中を押すのも微妙で、だからといって「自分で考えろ」と放置するのも違う。
結局のところ、【不安】を止めて今を見据えるためには、内省と行動が必要であるならば、僕はそのサポートをするのが妥当ではなかろうか。
【不安】について傾聴し、その感情を言葉にしてあげる。そのうえで、「ではどうするか?」を問いかけて、心を”今、ここ”に戻してあげる。
言葉の節々から慢や渇愛を感じれば、一切オブラートに包まず指摘する。「他人は今はどうでもいい」という風に。
もちろんこれは現段階の仮説なので、実際に使ってみたらそれはそれで違和感を覚えるかもしれない。だがその場合は、その違和感を基に修正すればいいだけだ。
―だが、生徒自身の心をラクにしてあげるつもりであれやこれやと調べたら、結局自分の心が一番落ち着いたような手ごたえがある。
依然として【不安】とはなんなのかはよくわからないままだが、「それでいいんだ」という裏書を得られたのは確かなので、安心はしている。
かなり長大な記事になったが、何か一つでも、刺さるヒントがあれば幸甚である。では今日はこの辺で。