精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

【本編も、勿論神。】【LOST JUDGMENT】の追加ストーリー:【海藤正治の事件簿】のラスボス戦で号泣した話。

最近、哲学に興味が湧いています。でも、何から学んだらいいのかわかりません。迷える中元です。

 

はい。このブログでも言った言わずか、僕は龍が如くシリーズが好きだ。今のところ、メインナンバリングは、全作品プレイしている。

 

そして木村拓哉氏が演じたことで話題になった【JUDGMENTシリーズ】も好きで、特に去年発売された【LOST JUDGMENT】は本当に良かった

 

―だが、本作ではなく、今回は追加シナリオの方を語りたい。

 

なぜかというと、僕は生まれて初めて、アクションゲームのボス戦で号泣してしまったからだ。

 

龍が如く維新のラスボス戦も、曲が神過ぎて危なかったが、今回は完全に涙腺崩壊である。

 

その理由は、僕自身が一番嫌いな頃の僕を、強く想起したからである。原作者が意図した形では多分無いのだが、とにかく僕の心は揺さぶられた。

 

その理由を、ネタバレをなるべくしないよう注意しながら、以下詳述したい。

 

 

弱い自分を自覚して強い自分になりたかったけどなれなかったあの頃。

 

プレイ済み、あるいは実況動画等でストーリーを知っている人にしかわからないように言うと、このストーリーのラスボスは、これまでの作品と比べると、極めて異質だ。

 

最初から抜きんでたカリスマ性・暴力性をむき出しにして、「こいつと闘るんだろうな~」と思わせるタイプでは全くない。

 

しかも最終的に決闘となる動機も、超純粋である。どちらの意地が上に行くかとか、龍に相応しいのはどっちかとか、そういう類ではない。

 

3のあの人とも違うモチベーションによる、血の滲むような努力。それによって力をつけ、海藤正治に挑む姿。僕はその姿に、不思議と過去の自分を重ねてしまった

 

少し自分語りをする。18歳の頃、僕は片想いの人がいた。

 

だがその人は、誰が見ても超高スペックの人。片思いということすらおこがましいほどの差が、日陰者である僕とその人の間に、厳然と存在した。

 

―僕はまだまだ、現実を全く知らなかった。そして、知らなかったこそ、無邪気に自分を信じて、努力に打ち込むことができた

 

その時僕が邁進しようと考えた努力とは、身体を鍛えて見た目を変えること、そして勉強に打ち込んで志望校に通ることである。

 

ダンベルは買ってもらえなかったので、カバンに辞書を詰め込んでトレーニングを重ねた。毎日何時間も、歯を食いしばりながら参考書に刻まれた問題に挑んだ。

 

・・・あまりにも独りよがりで気味が悪い思考と行動だが、しかしそれでも、僕は着実に、自分が良い方向へ変わっていくことを感じることはできていた

 

前者は客観的な指標が無いため捉えどころもないのだが、後者については、僕は達成することができた。これで、自分の能力と価値が上がったことは、担保された。

 

だから、僕の思いは実るだろう。そんなことなどありえないのに。実際にそうであった。たんぽぽが咲く河川敷、晴れやかな空の下、そよ風の中で、僕はフラれた。

 

そこから今に至るまで13年が経過したのだが、僕の人生に、カルピスウォーター的な思い出は一度も発生しないまま、今まで生きている。

 

この記憶や経験と、先のラスボスが、どうシンクロするのか?

 

僕が強く共感したのは、自分にできる努力を定め、それに打ち込み、結果を出せば未来が変わると信じて最後まで貫いたというのが1つだ。

 

他者の心なんてのは、最終的にどこまで行ってもわかりようがない。どれだけ自分にできる努力を重ねても、最後の最後は「天のみぞ知る」部分なのである。

 

しかしそれでも・・・。諦めきれない何か、そして強い思い。現実を見つめながらも、それに打ちのめされながらも、立ち上がっては努力を続けたのだろう。

 

そこまで明確に描写されてはいなかったが、そうでないとおかしいような結果やストーリーが、彼には表れていた。

 

そして、共感を覚えたのはもう1つある。超えられない壁なのだと自覚しながらも、一縷の望みをかけて、最後は正々堂々と挑んでいったことである。

 

彼は主人公に、そして僕は現実に。彼は最後に「スッキリした」とほほ笑んでいたが、奇しくも、僕もまた「スッキリした」と、フラれた後に心の底から感じていた。

 

これらはある種、自分にケジメをつけるための闘いでもあったと感じる。僕にとっても、最後に思いを伝えたあの時間は、自分へのケジメであったと、そう思う。

 

どうせムリだという投げやりな気持ちではなく、きっぱりとケリをつけて、良くも悪くも先に進む。そのために必要な儀式であり、成長痛である。

 

心のどこかにしまっていた、辛いともとれるし、清々しいともとれるし、幼稚ともとれるし、愛しいともとれる、僕自身の経験。

 

それと思い切り重なっていたがため、僕は最後に彼を倒す際のコマンド入力が、本当につらかった。過去の自分を殴り倒すようなものだったからだ。

 

・・・こんな形で共感する人は、果たしているのだろうか?彼には本当に、幸せになってほしいものである。切に願う。きっともう二度と登場しないだろうけど・・。

 

だけどそのおかげで悪くない人生を楽しめている今。

 

―ところで、「スッキリ」した後の人生について少し触れておく。その後もそういう青春的なチャンスは少しあったのだが、いずれも僕の指の間を綺麗にすり抜けていった。

 

その度に、自分にはどうしてもこうも価値や魅力が無いのだろうかと、本気で悩んだ。仏教でいう"慢"に強く囚われ、"渇愛"の状態にあったのだ。

 

筋トレはもはやライフワークになり、勉強をつづけた結果今の仕事に就き、そして気づけば英検1級を取るところまでたどり着いた。

 

しかし満たされない気持ちは、今でもはっきり覚えているが、28歳ごろまで強く強く残っていた。その渇愛が途切れたのは、1級の合格証書が届いたときだ。

 

この結果を取ったとき、僕は素直に嬉しかった。「1級持ってる奴なんか他にもいるよww」という五月蠅い僕の中のメタも、このときは完全に黙っていた。

 

そしてふと、悟った。自分を否定して努力を続けても、永遠に満たされることはないんだなと。幸せとは、なるものではなく、気づくことという言葉の意味がよくわかった。

 

「他者が理想だと思うステータスや肩書を追い求めることは、本当に僕にとって幸福なのか?」そんなことをこのとき初めて、自問することができた。

 

それに対して【NO】と言い切れたとき、ようやく、10年以上続いた渇愛のループが止まったのだ。(今でももちろん、時々少しは回るのだけれども)

 

そこから3年経ったが、そこからの人生ははっきりと、それまでの人生よりも楽しい。今は少しだけ将来を考えることはあるが、それを差し引いても、だ。

 

そう考えれば、必死の努力が現実に破られるあの刹那も、人生という時間軸で考えれば、少し強めの薬のようなものなのだろう。

 

泣きながらボスを倒した後、冷静になった後、そんなことを考えていた。

 

―ということで、【LOST JUDGMENT】は名作だから、みんなやりましょうというご提案で締めるとする。

 

では今日はこの辺で。

 

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