精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

【同業者向け】語呂合わせがダメなのではなく、語呂合わせに終始しちゃうのがダメ。

生徒たちにめちゃくちゃマッチョな学習方法を伝え、それを実践してもらい、結果半殺しにしている中元です。楽しい。

 

はい。突然だが皆様は、【語呂合わせ】に肯定的だろうか、否定的だろうか。

 

言い換えれば、【語呂合わせ】は学習に用いるべき方法として、積極的に押すべきか否かであれば、どちらの立場に立たれるだろうか

 

例えば、「いやいや、語呂合わせは科学的にも効果が無い学習法として、その筆頭に挙がるヤツじゃん!生徒に伝えるとか論外だよ!」という人もいるだろう。

 

しかし一方で、「何を抜かすか!俺はゴロ565をやり込んだ結果、古典の偏差値が爆上がりしたんだ!!」という反論もあることだと思う。

 

さて。そのうえで僕の持論を伝えると・・。

 

僕は語呂合わせを場合に応じて普通に使う。自分の学習だけでなく、生徒にも伝える。「しんかんせんは、かりあげ」とか有名なヤツだけじゃなく、オリジナルも然り。

 

そもそも僕は、語呂合わせがダメなのではなく、語呂合わせに終始しちゃうのがダメなのだと考えている。特に教える側は、このことを理解していなければマズい。

 

今日はそんなお話である。

 

 

【語呂合わせ】は客寄せパンダではない。

 

今でも覚えているのだが、中学生の頃、家のポストに通信教育の教材が入っていたことが、何回かある。

 

その内一つだけを今でも強く覚えているのだが、それは江戸時代の改革の語呂合わせなどがまとまった小冊子であった。

 

確か「巨峰を胸にしたタヌキ、真っかな熱燗と天ぷらタダ食い」みたいな感じだったと思う。(それぞれどういう内訳かは、長くなるので考えてみてほしい)

 

ご丁寧にそこそこ凝ったイラストも添えられており、だからこそこうして今でも記憶に残っているというわけだ。

 

―こんな風に、語呂合わせには、インパクトという魅力があるからこそ、無条件にそれはいいものだと感じ、”本来の用途”を無視して、それに終始する生徒が現れる

 

例えば、フビライ=ハンを覚えたくて、「エビフライチャーハン」という語呂合わせを考えるといった思考がそうだ。これはもう、いたたまれなくなる。

 

語呂合わせは単なる暗記の一ツールであり、それ自体が目的ではない。しかし、語呂合わせを作ることが目的になり、暗記がおろそかになるケースは、なんと多いことか。

 

様々な研究なりなんなりで否定されてきた【語呂合わせ】とは、つまり手段が目的化したそれのこと、なのである。

 

厄介なのは、語呂合わせはウケがいいからこそ、本来の目的をないがしろにしたまま生徒に伝える人もいる、という点ではなかろうか。

 

難解な語句が並んだ分野で、長々しい語呂合わせを作り、自信たっぷりに生徒へ語れば、なるほど確かにウケるだろう。

 

だが悲しいかな、本当にそれだけだ。ちょっとは定期テストの点数が上がるだろうが、模試などのレベルになれば、まず太刀打ちできない。

 

【語呂合わせ】は、客寄せパンダなどでは決して無い。ある心がけが抜ければ、言っちゃあれだがお互いの時間と労力の無駄なのだ。

 

―では、心がけとは何なのか?それは項を変えて、なるべく詳述していくこととする。

 

覚えるしかないけど、そこに論理的な共通点が見出せない語句を繋ぐのが、【語呂合わせ】である。

 

「酸素缶チュウチュウ」という語呂合わせがある。なんとも間抜けな響きだ。これを嬉々として喋るヤツは、偏差値が高いとは思えないだろう。

 

だがこれは、ある暗記が難しい社会の一分野の語呂合わせになっている。これは、日本の戦後外交で結んだ条約の名前・相手国と、順番のヒントなのだ。

 

サンフランシスコ平和条約、日共同宣言、日基本条約、日共同声明、日平和友好条約。

 

つまり、サンソ韓中中。僕はこれを、見事だと感じた。実は難儀していたこの辺の記憶に秩序が生まれ、一気に腹落ちした気分がする。

 

ここは並べ替え問題でも頻出の分野であり、いわゆる「覚えたら勝ち」と言われるところとなる。だから覚えればいいのだが、こういうところは得てして、秩序がない

 

つまり、暗記しようにも、ヒントが無さ過ぎて、そもそも記憶に紐づけることが難しいのだ。大人になれば、論理的に考えれば覚えることもできるだろうが・・。

 

だが、論理的かどうかはさておき、ただのカオスに順序とリズムを与えるのが、僕は【語呂合わせ】だと思う。こうすれば、ある程度の"型"をつくることはできる。

 

余談だが、僕は記憶の作り方について、鉄球と棒磁石のようなものだと考えている。鉄球とは、極めて大事な、全ての基本になるような知識のことだ。

 

例えば、「弥生時代」「九州地方」「イオン」といった単元名から、それこそさっきの「酸素缶チュウチュウ」という語呂合わせも、僕にとっては鉄球だ。

 

その鉄球と鉄球の間には、大きな隙間がある。その隙間に棒磁石をどんどん並べていって、いずれ鉄球と鉄球を繋ぐ。それが僕なりの暗記のイメージである。

 

磁石だけを並べてくっつけても、持ち上げれば崩れるように、ある種の基点になる記憶がなければ、それは大変脆く、儚いものだ。

 

「酸素缶チュウチュウ」という語呂合わせは、その基点として強力だ。だが基点だけ、つまり鉄球だけが並んでいても、「だからなに?」という話なのである。

 

僕らの仕事は、棒磁石を生徒の頭に並べていくことだと捉えている。サンフランシスコ平和条約と日ソ共同宣言の間に起きた出来事は何か、などなど。

 

人は「位置」に紐づけて記憶をする性質があるとはよく言われる。例えば僕も、昔よく遊んだ神社にいくだけで、忘れていた思い出が、自然と頭に想起する。

 

それは脳内でも同じであり、例えば「素と缶の間に起きた出来事のはず・・」といった思い出し方は、決して不可能ではないどころか、むしろ自然なのだ。

 

―ということでまとめよう。

 

詰め込み教育がどうだこうだという前に、覚えないとテストで点が取れない以上、まずは知識を語呂でさっさと頭に入れてあげる

 

そしてそれぞれを強固に繋ぐための説明を、前か後で必ず入れる。これさえ忘れなければ、語呂合わせも立派なアクティブラーニングなのだ。

 

その辺りも踏まえたうえで、是非とも取り入れていただければと思う。では今日はこの辺で。

 

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