何をどう間違えたのか僕も理解しきっていないのですが、誤って釣り餌のエビをレンジで温めてしまい、台所が強めにエビ臭い中元です。
はい。Daigo氏のブログを読んでいた際、興味深い言葉に出会った。それは、【メソドス】と【テクネー】という言葉である。
元々はギリシャ哲学の言葉で、邦訳だと【知識】と一絡げにされる言葉を、さらにその性質によって、細かく分けた感じだと僕は考えている。
つまり、【知識】=【メソドス】+【テクネー】という具合だ。まぁ、細かいところは違うのだろうけど、素人なので見逃してつかぁさい。
ただ、語源や正確な意味を、気になって色々調べてみたが、すぐ難解な議論に突っ込むため、僕にはお手上げだった。だから、先のブログに書かれていた定義を引用する。
メソドスという言葉とテクネーという言葉に分かれていて、メソドスというのはどちらかと言うと僕たちが今思っているような知識です。
例えば、「A というものは B である」というように言語化して説明されただけで理解できるもので、これがメソドスです。
テクネーというのは、体や感覚を伴わないと理解することができない知識のことです。
例えば、数学的な能力や言語能力です。
会得して自分が使えるようにならないと理解できない知識というものがテクネーと呼ばれるものです。
・・この考え方は、特に教える側として経験値を積んでいると、非常に腑に落ちる感覚がないだろうか?
勉強してもしてもしてもしても点が上がらない!理解できない!という生徒は大抵、メソドスの詰め込みに躍起になり過ぎており、テクネーが不足している。そんな風に。
そしてこの言葉を丁寧に紐解いていくと、ただの【知識】と【得点力】を分ける何かが、手触り感を伴って、見えてきそうである。
ということで今日は、【メソドス】と【テクネー】を起点として、【知識】と【得点力】を分ける何かの話をしてみようと思う。
【メソドス】で点が取れるのは定期試験までだし、先生によっては定期試験の点すら取れないよ。
まずは【メソドス】の意味合いについて、軽く確認しておこう。 これはシンプルに、説明を受けたり暗記したりするだけで、理解できる事柄のことである。
例えば、歴史の語句や、数学の公式など、覚えたらそれで完結する語句や知識がそれに該当する。
基本的に、本を読んだり学校の授業を聞いたりして学べるものの9割は、メソドスと呼ぶのが正確ではと感じている。大抵は頭に入れて、そのまま放置されるからだ。
ただ不思議なもので、定期試験とかだと、メソドスをたくさん頭に入れておけば点になるため、それの何がネックになるのか、気付く機会が乏しいのも特徴である。
もちろん、メソドスにも弱点はある。自分が頭に入れた際に使った説明以外のコンテクストで問われると、全然思い出せない可能性が高いことだ。
例えば、本当に一字一句違わず、教科書の説明の通りに問題文が作られていないと思い出せないようでは、メソドスの中でもかなり危うい記憶だと考えて差し支えない。
・・ここまで書くと、メソドスはどうも無条件で悪い言葉のように聞こえる。使い物にならない知識を詰め込んだ結果のゴミのように感じる人もいそうである。
念のために添えておくと、そんなことは無い。どんな思索もスキルの修得も、メソドスを頭に入れることが第一歩であり、必ず通る道だからだ。
微妙なのは、頭に入れて、そこで勉強や学習を完了したと勘違いすることである。わかった時点で終えることは確かに気分はいいが、代わりに成長はまず見込めない。
―かくいう僕自身、最近、メソドスを頭に入れたに過ぎない状態で勉強を終わると、マジで意味が無いことを実感する、ある出来事があった。軽く紹介する。
先日昔の縁で、地質学のフィールドワークみたいなものに参加する機会があった。当然その説明には、専門用語が使われてくる。
その中には、教科書を読んで知っている言葉もたくさん含まれていた。例えばカンラン石とかクロウンモとか、火山灰の層とか、そんな風に。
しかし、講師の方は、それをあたかも慣れ親しんだ言語のように、説明の中で一切よどみなくそれを活用し、話されていた。
「カンラン石が含まれるということは、有色鉱物の・・・」という記述は、参考書でも読んだことがある。ただそれを、すらすらと言われたら、想起が追い付かなかった。
一方、僕以外の同行者はそれを理解したうえで、同じような言語を用いて質問をするなど、何か孤立したような感じを僕は抱いてしまった。
英単語と英熟語を完全に覚えただけの状態で海外に行って、言葉が理解できず、通じもせず、ただただフルボッコにされるようなものかと思った。
知識を使いこなすには、ただ知っているだけではダメなのだ。そんなある種当たり前のことを、少しだけ苦い経験を通じて、強く実感できたと捉えている。
実際、最近の入試を見ていると、巧妙に言い回しを変えたり、前提条件を少しイジったりして、教科書に書いてある知識を応用した形で問うものが大半である。
もはや、メソドス状態から知識を進化させることが、絶対に必要なのは明白だ。定期テストも最近、学校によっては顕著にその傾向を強めている。
では、そのためには何を心掛けて学習に励めばいいのか。続いては、その心掛けと、それが孕むリスクについて、まとめていきたいと思う。
【テクネー】だけだと「則ち殆(あやう)し」。
メソドスを上のレベルにするために加えねばならないのは、体感や経験といった、実践によって得られる学びである。
それらが伴うと、知識は別の呼び名になる。それは、【テクネー】だ。調べてみたが、和訳したものは、「技術知」である。
例えば絵を描くことを考えよう。上手なデッサンの方法、印象的な色塗りの仕方などなどの知識を知ってさえいれば、果たしてそれだけで傑作に繋がるだろうか。
それらに加えて、自分の筆のタッチのクセや、言語化できていない自分なりのコツなども、そこに投入されるはずだ。
これらは、もはや”知っているだけ”の状態を完全に脱している。いわば、使いこなせている。そのレベルの知見を総称すると、【テクネー】と言えるようである。
では、意識的にメソドスを脱し、このテクネーに持っていくためにはどうすればいいか。自明に思えるが、やはり実践と練習が大事なのは間違いない。
だからこそ、そういった要素を重視した学習法として、アクティブラーニングの熱がここ最近ずっと高いのだ。
学習効果が高いとは、その勉強を通じて、ただの知識であるだけの状態を超えることができる、という意味なのである。
―ただし、だからといって、変な勘違いをするのも考え物だ。
例えば、教科書なんか読まなくてもいい、英文法なんかやらなくていい、ひたすら問題を解けばそれだけで成績は伸びると信じ、ガムシャラにそうするという風に。
・・これのリスクはすでに、孔子の論語で大昔に指摘されている。「思ひて學ばざれば則ち殆(あやう)し」というフレーズがまさにそれだ。
この言葉を乱暴に訳すと、「新たな知識を学ぶことも習うこともなく、我流で延々と考えたり練習したりすれば、独断的な考えに凝り固まって超危険」、となる。
今さら言うまでもなく、これについてはその通りだろう。独学・我流だけで高みに昇れるのなら、コーチも専門学校も要らない、ということになる。そんなバカな話は無い。
もちろんテクネーの考え方は重要だ。そこは否定しない。しかし、そればかりやってしまうと、それはそれで成長は無い。
・・このことを考えると、論語って真理をズバリを突いていると、改めてその先見性に脱帽するばかりである。
學びて思はざれば則ち罔(くら)し。思ひて學ばざれば則ち殆(あやう)し。
今読み返せば、「メソドスだけでもテクネーだけでもよくないから、両方バランスよく取り入れようね」というニュアンスに思えてくる。
ちょっと余談気味ではあったが、古典の魅力がまた一つ理解できた瞬間であった。
【知って、使う】という大切さをどう普及させるか。
ここまで調べてみると、教える側として、どのようにしてメソドス・テクネーと向き合うべきか、改めて考えさせられる。
いわば、頭の中に詰め込むだけで満足しちゃう生徒に対し、どうやって実践・練習の大切さを伝えるか、という命題に落とし込める。
英単語を覚える生徒は多いが、音読をする生徒はいないのを考えても、ここは一筋縄ではいかない部分だと思えるが、向き合わねば学力の向上はあり得ない。
・・・今のところは、アスリートのコーチみたく、一週間の中で取り組む学習メニューをこちらが作成し、しばらく生徒たちにそれを実践してもらおうかなと思っている。
そして成果が出始めたら、こちらが指示を出すのを少しずつ止めていき、自発的にテクネーを意識した学習ができるよう仕向けていく感じだ。
―特に高校の単元となれば、メソドスばっかり頭に入れても20点くらいしか取れないのがザラだ。だが、テクネーを意識すれば、それを倍にすることは容易だとも思う。
皆様も、知識の性質という部分に、ぜひとも思いを巡らしてみてほしい。では今日はこの辺で。