最近、【イラついたら問いに変えるゲーム】を自分で発案して遊んでいます。遊びまくってネタが溜まってきたら記事にするので、お楽しみに。中元です。
はい。モロに佐渡島庸平氏の著書の影響を受けた結果、ここ最近は【観察ジャンキー】と化してしまっている。
https://president.jp/articles/-/49554?page=2
元々メンタルは豆腐な僕なので、過度に落ち込みそう、あるいはネガティブに囚われそうになった際は、すぐそれを問いに変換し、脳内で解くような意識を持っている。
ちなみに、似た遊びはひろゆき氏も【無敵の思考】の中で書かれていたし、仏教の説く教えの中にも、「自問」や「感覚への集中」というものは含まれている。
それらを考えても、色々と恩恵のあるレクではないかなと勝手に嬉々としているわけで。お金もかからないし、ネタも溜まる、と。
―だが最近、そんな手放しで喜べそうな”問い”の中にも、正直抱え込むだけメンタルを削る悪問が存在するような気がしている。
これもまた一つのただの問いなのだが、脳内の整理整頓も兼ねて、一旦私見をまとめておこうと思う。では以下、本題である。
【検証ができない仮説】は、メンタルを病むので注意。
僕が考える悪問とは、どこまで行っても【検証ができない仮説】のことである。具体的に言えば、試験の結果や、他者の思想は、どこまで考えてもマジで無駄だと思う。
これらは、主体的に動くことである程度コントロールしたり、または情報を得たりできる領域を、完全に超えているためだ。
終わったテストの結果は、発表や返却のときまで絶対にわかりようが無いし、他者の考えていることなど、それ以上にわからないものだ。
もちろん、自己採点をしたり、あるいはインタビューをしたりすれば、ある程度正確なところまで検証が可能なのだが、そういう手が採れないのなら、やはり時間の無駄だ。
例えば、今は生徒が受けた英語検定の結果がそろそろ出そうというタイミングなのだが、生徒が受かったかどうかなんてのは、究極的には当日まで絶対にわからない。
自己採点の結果は合格ラインを超えていても、英作文がきちんと点数を貰えるかどうかはわからない。そもそも、マークミスをしている可能性だってある。
また、最近会社で借り上げている駐車場に通じる道に、道幅を極端に狭くするようなポールが設置されており、出社時にめちゃストレスが溜まる状況になっている。
誰がどうして設置したのか。一体何が狙いなのか。情報があまりにも少ない以上、僕にできることは思考を進めることではなく、もはや妄想に等しい。
そういった風に、ある種感情を起点とした思索は、結局何にも得られるものがない、というのが現時点の仮説である。むしろ、考え続けるだけ病んでいく気がする。
今自分が考えていることは、悪問なのではないか。折に触れて自分にそう問うようにしているが、では気付いた後にどう御せばいいかは、まだ答えが出ていない。
今のところは、似た事例や悩みを持つ人のコメントをザッピングして眺めたり、プルチックの感情の輪をに当てはめると言ったことをしているが、どうも腑に落ちない。
結局はそうこうしている内にどうでもよくなって頭から消えていくのが大半なのだが、もっと上手に扱えるようになりたいなとは、常々感じている。
あとから検証をする際にも、【後知恵バイアス】を意識しないと意味がない。
こういった悪問は、いざ検証ができる段階になっても、気を付けるべき厄介な性質を持っている。それは、【後知恵バイアス】だ。
このバイアスは、「物事が起きたあとで「そうだと思った」などと、まるでそのことが予測可能だったと考える心理的傾向のこと」だと言われる。
例えば、「だから言ったのに」といった風なコメントを言われたり、あるいは自分が言ったりしたとき、そこには後知恵バイアスが働いていると考えていいだろう。
また、歴史の出来事を教科書で読んだ後、「なんでこんな無謀なことをしたんだろうな」と思うのも、ある種の後知恵バイアスだと僕は解釈している。
さて。人間にはこういう厄介な心理的傾向がある以上、悪問を検証する際には、それを意識して差っ引いたうえでの分析が求められてくる。
そしてこのことは、自分の責任から逃れる自己愛型の人もそうなのだが、むしろ自分のことを責めがちな、肯定感が弱めの人ほど、特に気を付けた方が絶対に良い。
何故かと言えば、その当時を考えたら予測することなど絶対に不可能なことでも、未来から振り返れば、できたはずなのにできなかったという評価を下しがちだからだ。
少し壮大な例を挙げれば、なぜ蒙古軍の二度目の襲来の後に、もう侵略はないのに、鎌倉幕府は莫大な軍事費を削れず、崩壊することになったのかと考えるのと似ている。
当時は、三度目の襲来があると想定するしかなかったのではなかろうか。しかもそれは、いつ来るかわからない、未曽有の恐怖である。
その事情を考えれば、あれは決して無駄な軍拡などではなく、むしろあまりにも悲痛な恐怖との戦いそのものという認識に変わってくる。
―こんな風に、当時の事情と、今現在の情報量には、得てして大きなギャップがある。だからこそ、検証には慎重にならねばならないのだ。
・・・では、どのようにすれば、後知恵バイアスによる影響をなるべく少なくすることができるのか。色々な対策が挙げられていたが、どれもまだ手探り感が強い。
その中でも、普遍的な教えに共通するものをピックアップすると、良さそうな施策が立ち上ってきた。
例えば、その判断をした背景を、客観的に言語化するところから始める、とか。観察力の鍛え方に書かれていた、ディスクリプションという段階に似ている。
そしてその判断によって、ひとつの結果が出たわけだが、他にもあり得た選択肢はないかと考えるのも一手だ。よりよい選択肢だけではなく、より悪手は無かったか、など。
そう考えると、結果に対する観点が変わってくる。最善手を選べなかったという解釈ではなく、最悪手を選ばなかったという解釈に変わるかもしれない。
やはりまずは、ニュートラルな評価に戻すことが先決だろう。過程と結果をセットにして、教訓に変えるためには、感情的なあれこれはめちゃくちゃ邪魔なのである。
終わりに:考えるに値しないことを考えないことも大事。
英語の仮定法過去の例文を読んでいると、「1日が30時間あったらいいのに!」と嘆く人がたまに登場する。(ちなみに、If only か I wish で書き始める)
これはただの仮定法を使う例文に過ぎないので、内容はどうでもいいのだが、多分この人は1日が30時間あったら、35時間あったらいいのにと嘆くタイプだと思う。
僕もまだまだ不十分なのだが、不必要な思考とかタスクは上手く仕分けて減らしていかないと、いつまで経っても【余白】が1日の中に生まれてこない。
考えるに値しないことを以下にして"考えない"か。最近、これが自分の課題ではないかとつくづく感じている。
くだらないことを、有意義な問いに変換して考えることは、今でもギリギリできることではある。ただ、そもそも考えないとなると、話はまた変わってくる。
浅薄なフィードバック、無根拠の猜疑心、過去と未来の皮を被った妄想。こういったあれこれを、無価値だと言って切り捨てられるか、どうか。
・・突然だが、今日突然、とある明朗な性格で、身体も頑健そのものと考えていたインフルエンサーの訃報に接し、生徒の前で「はぁ!?」と驚きの声を上げそうになった。
現在は様々な憶測が飛び交っている状態であり、詳細を知ろうにも、時期を待たなければガセネタや要らぬ感情論を掴まされるだけ、という雰囲気である。
やはり、人はいつか死ぬ。それは今日かもしれない。明日かもしれない。何なら、数分後かもしれない。人生は有限だということは、当たり前な話なのに、気付けば忘れる。
これを思うと、やはり考えなくてもいいことに時間を割くことは、人生を無駄遣いしていることに等しい。それはとにかく、辛い。
しかし同じくらい、【検証ができない仮説】に呻吟するのも悲しい話だ。時間のせいで答えが出せないとわかっている問いに、ひたすらくよくよする。不毛だ。
考えるべきことは徹底して考える。しかし、考えなくていいことは、そもそも存在すら認知しない。空いた時間は別の思索を詰め込むのではなく、余白として取っておく。
眩暈がしそうな難問だが、日々観察のサイクルを回しながら向き合って、しっかり習得していかねばならないと独り言ちている。
―最後はちょっと、訃報のショックが大きすぎて話が脱線してしまったが、今日はこの辺で。