精神年齢9歳講師のブログ

"よいこ"から程遠い目線から、授業のネタ、講師としての日々、そしてたまには教育や子供について、真面目なことを基本毎日書いてます。

【同業者向け】塾講師とは、日々「後知恵バイアス」との戦いである。

1日9~10コマも授業ができていた頃が、遠い夢物語のように感じる中元です。

 

はい。いきなり変な質問だが、「後知恵バイアス」という言葉を聞いたことはあるだろうか。

 

言葉はやや学術的だが、その意味するところは極めて身近な話である。乱暴に言えば、「出来事が起きた後で、それを予想できたはずだと思い込むこと」だ。

 

自分事でいうなら、雨が降らないだろうと高をくくって外出したら、思い切り雨に打たれて、その判断をした自分を責めるのもそう。

 

また、野球の試合を観戦中、監督が代打を出したらその選手が凡退したのを見て、「俺なら別の選手を送ったのに!」と吠えるのも、いわば後知恵バイアスの一つである。

 

そして塾講師というものは、つくづく思うのだが、後知恵バイアスという存在を知らないと、他人に振り回されるし、心はブレるし、指導に一貫性も無くなっていく

 

実際、このバイアスを知るまでは、そこそこキツい時期もあったが、今はこの言葉を知ったことにより、それだけで心が楽になる感覚もかなりあったわけで。

 

ということで今日は、塾講師なら気を付けたい、「後知恵バイアス」との向き合い方を考察していこう。

 

 

テストの問題を予想できなかったことを悔やむのは、単なる自傷行為に過ぎない。

 

一時期、テストの問題を本気で予想して、生徒に徹底して伝えるということをやっていた。当たれば喜び、外れれば腹を切るつもりかというほど自責した

 

入試問題についてもそれは同様で、過去の傾向を分析し、10年分の入試問題から類似点を探し、来年もそうだと自信をもって生徒に伝え、外れたら、以下略。

 

さて。こういう予想について、するかしないかについて賛否両論あるだろうが、今は「したければすればいいよね」という立場に落ち着いている

 

ただ、外したときに自分を責めるのは、本当に良くないとも考えている。理由は、当たるも八卦当たらぬも八卦、テストの予想など所詮そういう話だからである。

 

例えば、サイコロを4回連続で転がしたとしよう。出た目が2・3・4・5だった場合、さて、次の目はなんだろうか?

 

―この問いについては、わかるわけがないと思った人が正解だ。この場合、過去は将来の目について、何にも影響しないからだ。

 

繰り返しになるが、テストの問題も、入試問題も、同じような話だ。だから、当たれば喜ぶのはさておき、外しても落ち込む必要は全くない。

 

もちろん、例えば「この先生は並び替えが好きだよね」という傾向から、その練習をやや多めにやるという程度なら悪くないが、作成担当が変わったら、さていかに

 

あとになって「当てられたはず」なんて悔やむとしたら、これこそ「後知恵バイアス」の犠牲になっている。

 

長くこの仕事を続けたいのなら、予想については「ただの運ゲー」程度に構えておく方がベターである。

 

生徒の退塾を止められなかったことを、僕は責めない。※例外はあるよ


生徒が退塾するとなった際、「心当たりはなかったか?」とよく上司に問われたものだ。だから伝える。すると、「その時点で止められれば・・」と悔やまれる。

 

その後悔は僕に向けたものか、その人が自分に向けたものかは知らないが、その問答を通じて僕自身も一生懸命自責したのを覚えている。

 

では、今はどうか。例外はあるが、僕は、生徒が止めるとなった際、担当講師を責めることはしない。心当たりも聞かない。そしてましてや、自分を責めることもない

 

理由は、後知恵バイアスによって歪められた検証に、何の価値もないと考えているからだ。このやり取りは、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いという諺と同じ。

 

退塾するという結果になってしまった以上、振り返ればすべての行動がその兆候だとしか思えなくなる。授業中に笑顔が減った。来る時間が数分遅れた。そんな風に。

 

人間と人間の関係は、思った以上に流動的である。繋がっては切れてを繰り返すのが自然なので、そこを強く責めるのは不健全だと思う。

 

―だが、繰り返すが、例外はある。その例外とは、過去の経験・実例から、”確実に”止める兆候となっているものを見逃したケースである。

 

例えば、成績が2期以上、いかなるテストを見ても下がっている。宿題を3回以上連続でやらなくなる。授業が崩壊気味。連続して欠席が続く、等々

 

こういう事例については社内で何度も共有している手前、報告を怠ろうもんなら僕はめちゃくちゃ詰める。講師も、もちろん自分も、だ。

 

成功はアート、失敗はサイエンス。再現性があるミステイクについてはやかましく言うべきだと思うが、それ以外は抱え込まない方がベターである。

 

終わりに:わかった後で評論家になるか、わからないまま取り組んで擦過傷を負うか。

 

さて。「後知恵バイアス」について説明してきたが、実はこれに嵌っている人というのは、その言動から秒で察することができる。

 

それは、結果が出たもの、過去のことについてのみ、コメントを繰り返すというものだ。マキタスポーツ氏が言うところの、「評論家ヅラ」である。

これについては、言っている当人の気分が良いことは認める。頭が良いと思われる可能性があることもわかる。だが、前進があるかと言われれば、多分無いと思う。

 

佐渡島庸平氏も著書で語っていたが、「後になって評論家ヅラするより、失敗して悔やしいと言っている方がカッコイイ」といった風に、結局価値観に落ち着くと思う。

 

そういえば藤田晋氏も著書で言っていたが、評論する側ではなくされる側であり続けるというのが、プレイヤーの心構えだそうだ。これについては同意である。

 

後知恵バイアスに囚われている限り、その講師の授業は全てラジカセ授業になるという危惧もある。そうならないよう、後知恵バイアスじゃないかと問い続ける感じ。

 

正解かどうかはいつだって後になってわかるものだが、その”後”がいつのことを言っているかは、誰にもわからないのではなかろうか。

 

そんなヘンな問いを投げたところで、今日はこの辺で。

 

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