精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

創りたい塾を考える Vol.16 【大手塾の雰囲気を、そのまま個人塾に移植することは、即ちあやふし。】

努力と修行と特訓って、似てるようで微妙に結構違うよねと、最近ひしひしと感じている中元です。

 

はい。なんだかんだで「これから」のことを考える必要が出た今、一旦止めていたコミュニティ論の勉強を、また始めたところである。

 

しばらく加筆していなかったノートのページを見直し、そこへ改めて最近気付いた事柄などを書き込み、新しいヒントになる繋がりは無いかとじっくり眺める。

 

ぶっちゃけ腰を据える時間はそこまで無いのだが、無理矢理スケをこじ開けてでもそれに取り組んでいる。

 

ただのカンだが、改めてそこを学ぶべきときだと、強く感じるからだ。”組織を創る”とは、果たしてなんなのか。僕にとっての理想のそれは、どんなものなのか。

 

こういう指針を作り込むことなく校舎を運営とか、恐ろしいだけじゃなく極めて無責任である。僕は急いで、とにもかくにもリーダーにならねばならないのだ。

 

―そしてその一環として、色んな塾のHPを観たり、講師のブログを読んでいく内に、意外でもなんでもない、あることに気が付いた。

 

それは、大手塾には大手塾に相応しい文化・風土があり、個人塾は個人塾に相応しい文化・風土がある。しかもそれはあまり重複していない、というものだ。

 

今日はその仮説を基に、自分が設計していきたい校舎の文化・風土について考えてみたいと思う。

 

 

大手塾に【個性】は要らない。

 

大手塾と聞くと、どんな会社が頭に浮かぶだろうか。Z会公文式河合塾駿台四谷大塚?まぁ、色々あることだと思う。

 

大手とは何をもって大手と呼ぶのか、なかなかに定義が難しい。なんとなく知っている程度の知名度や規模は、果たして大手なのか。地方で最盛の塾は、どうか。

 

とりあえず僕自身は、「①生徒数が数百人単位であること②全国区の知名度があること③成績上位層がターゲットであること」等が、その必要条件ではないかと考えている。

 

これらを考えると、各大手塾の戦略は、非常に徹底した一貫性を持っている

 

合格実績は名だたる学校ばかり。超一流の講師陣が揃っていることを謳う。そしてそれがどこでも受けられる。そういったところが共通する押しどころではなかろうか。

 

―だからこそ、実を言うと、大手塾の各校舎は、そこまで個性が全面的に出ることが無い。本部から降ってくる命令を、忠実に実行するスタッフがいるだけだ。

 

「ここにあるのは、CM等で喧伝されている学習環境そのもの。」そういう風に環境を作り込まないと、ある種広報に対して裏切りとなる。

 

さて。これを考えると、何が見えてくるのか。

 

ぶっちゃけていうと、最初から成績上位層の子は、ほぼ例外なく大手に刈り取られてしまうため個人塾がターゲットに推すのは少し難しいという現実だ。

 

大手とは、成績上位層の子達が、同じような熱い志を持って集まっていることが担保された環境。教育熱心な人ほど、結構そういう考え方をしている印象がある。

 

だから自動的に、入れるならソコ、という風に決まるのだ。思うに、この戦略を超マスに打てるからこそ、大手なのではという気もしてきた

 

となれば、大手塾の系列には、そこまでゴテゴテした個性は要らないという風になる。生徒は本部が集めてくる。校舎では一貫したサービスを提供すればいい。

 

セブンイレブンはどこの店に立ち寄ろうとも大体同じ品ぞろえとレイアウトだが、それこそがある種求められていることという図式に似ている。

 

・・・しかし、いわゆる個性とかイベント性こそが、局所的に個人塾が大手に勝つ鉄板の戦略であることを、ここで少し思い出したい

 

これを踏まえると、生徒数を増やしたいから、大手塾の校舎環境を真似するという戦略は、ある種愚策にしか思えなくなってくる

 

フランチャイズ系のところは、大抵独自性のあるイベントを打つと、恐らく本部から叱られる。そういう事情もあるので、勝手なことは必然的に制限させられる。

 

個性を出すことがあまり必要のない場所を真似して、自分の校舎から個性を消すというのは、やはりマズい。

 

特に今は、ファンコミュニティといった新たな文化が登場して久しい時代だ。環境レベルで【個性】を発揮する必要性は、否応なしに高まっている。

 

そういう意味でも、地に足を付けた計画立案は、非常に大事だと、改めて独り言ちている。

 

―続いては、その【個性】について思うことを、一旦頭から棚卸して整理整頓してみる。

 

厳しい話だが、【個性】なき個人塾など、存在する理由がない説。

 

尚、ここでいう【個性】とは、何も奇抜であるとか風変りであることを意味はしない。例えば奇を衒って緑髪のモヒカンにするとかは、ただイタいだけである。

 

ここもまた、固い言い回しになるが、文言にするとこうなる。

 

「誰がどんな理念をもって指導に当たり、そして何を共有する生徒たちが集まっているのか、しっかり可視化・言語化された状態」

 

である。例えば、「校舎長は誰か、その人の想いは何か、そして指導している生徒の学力層や学校はどの程度まとまっているか」といったあれこれだ。

 

個人塾の中でも特に栄えているところを見ると、ここを設計すること、そして広報することが、嫉妬してしまうくらい非常にうまい。惚れ惚れするほどだ。

 

しっかりとした理念から出発するから、似た志の生徒が集まるし、そぐわないところは勝手に離れるし、イベントごとも毎度毎度、評判になる。

 

なんとなく学歴ある講師が、なんとなく指導に当たる。そういう場所は言っちゃ悪いが大手塾の劣化版であり、選ぶ理由も、選ばれる必然性も、そこには生じない。

 

ついでに言えば、没個性・凡庸な場所は、そこで働きたいという人を集めることも無い。全体的に活気が乏しくなることも見えている。

 

厳しい話に聞こえるが、ほぼ自分に向けて言い切ろうと思う。

 

資本主義において、【個性】なき個人塾は存在価値が無い。

 

―時間は無いが、まずはできる限り僕が僕の理念を言語化し、それを何度も伝えることから、全てを始めていこうと思う。

 

ということで、ただの脳内整理の記事であったが、今日はこの辺で。

 

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