精神年齢9歳講師のブログ

校舎での出来事、読んだ本、つまりインプットを全てアウトプットに変える実験場、的な。

【同業者向け?】部署ではなく、”チームを”任されたい今日この頃。

最近、ついに没頭できるアニメを見つけました。それは「ちいかわ」。どうも、31歳独身の中元です。

 

はい。少しどうでもいい話なのだが、最近【光圀伝】の二周目を読了した。水戸光圀の史実は全く知らなかったのだが、それでも純粋に面白い歴史小説である。

―その下巻だったと思うのだが、そこで描写される光圀の心情の中に、今の自分にビシビシ刺さるところが、実はある。

 

ネタバレしないためにぼかしておくと、簡単に言えば「大きな夢や目標を成すには、後進を育て、託してやらねばならない」というものだ。

 

もっとコンパクトな規模に落とし込むなら、「一人でできることなどたかが知れているから、同志を集め、ともに進む」みたいな感じだろうか。

 

この部分がなぜ今の自分に刺さるのかというと、夢や目標はあるが、それに対し共に向かう仲間を持っていないという状況下に、僕があるからだ。

 

部署を任されてはいるが、いわば下請けのような状況であり、肩書はあれど裁量は微妙で、チームではなく僕個人が歯車の一つとして機能しているようなものだ。

 

もちろんその一環として大学生講師などに仕事を依頼するなど、曲がりなりにもマネジメントごっこをすることはある。

 

あるのだが、どうしても人的資本が流動的になるため、例えば僕の理念もどきを浸透させて、長期でそれに向かっていく、という行動が採れないのだ。

 

僕はやはり、部署ではなく、チームを任されたい。もっと言うなら、チームを作る権限が欲しい。例え四苦八苦することになっても、このまま終わるよりマシだ。

 

今日はそういうお話を書いてみる。

 

 

理念や目標、夢の無いチームは属していて辛いとよくわかっている。

リーダーたるもの、理念や目標、夢を語れとよく言われる。これは青春活劇あるあるに聞こえるが、現実世界でも鉄板の施策だという。

 

もちろん学校の先生であれば、生徒一人一人の幸せに他ならないだろうし、ぶっちゃけ私企業であれば、利潤を追求すること以外に目標など、無い。

 

だが、それをどう語るかは、人による。夢の無い語り方もできれば、何かワクワクするような絵図を語ることもできる。

 

前者であれば、例えば「働け、稼げ」とだけ言う感じで、後者なら、例えば「年間売上〇円立てて、旅行に行こうぜ!」という感じだろうか。

 

指針と言うには大袈裟だが、聞いてて楽しいと思う、ワクワクするようなゴールなり中間地点なりは、社会人になって10年以上経った今ひしひしと感じる。必須である。

 

逆に、何を目指して頑張ればいいのか、このキツさは何のためなのかがわからない状況下に置かれ続けることは、結構辛い

 

「給料もらってんだから、働いて稼ぐのは当たり前だろが」と思われるだろうか。

 

しかしながら、もし金銭的な理由しかそこに属する意義がないのなら、その仕事でなければいけない理由そのものがなくなると思うのだが。

 

”やりがい搾取”という言葉が広まって以来不思議と憚られるようになったが、今はやはり、優秀な人を留め置けるかどうかは、環境の良し悪しに因っていると思う。

 

職場は楽しいか?大志を抱いた人がリーダーをやっているか?研修制度は充実しているか?内面を充実させてくれるかどうかを問う目は、過去イチでシビアになっている

 

・・・有能とされる人材は、ぶっちゃけ一人でも稼げるだけのスキルを持っている。そういう人がわざわざ属してくれるかどうかは、誰が率いるか、誰が居るかで決まる。

 

夢も語られず、目標も示されず、さらに言えば何をしたら怒られるかもわからず、もちろん何が評価されるのかもわからない中で働くのは、繰り返すが滅茶苦茶辛い

 

それならまだ、例えば「ラクして稼ぎたい」とリーダーが公言してくれた方がマシだ。そしたら僕も堂々とその声に従い、休日を充実させるだけなので。

 

・・とまぁ、察されると思うが、実は今の職場には完全に、【夢】が欠けている。僕らは何を目指して生徒への指導に当たればいいのか、誰も答えを持っていないのだ。

 

僕は一応独立を考えている身なので、企業理念もどきは作ってこそいるが、まだまだ自分が目指す部分を言い表している気はしない

 

その部分は、新しいチームのメンバーと一緒に、磨いていきたいと思っている。だから今は、もう少しだけ大事に、心の奥底に隠しておきたいと思う。

 

僕なりの【安心・安全】の設計。

コミュニティ論の勉強をしている際に出会った考え方で、そもそも組織づくりにおける基礎基本、あるいは基盤と言っていいのではと解釈しているものがある。

 

それは、「安心・安全の設計」である。同じことを二回言っているように聞こえるが、その意味するところは少し異なる。

 

実際に、「あなたに任せれば安心だ」というのと、「あなたに任せれば安全だ」というのとでは、少し意味が違うように思える。では、具体的にどう違うのだろうか。

 

佐渡島庸平氏も著書で書いていたが、例えば「安心」とは主観的で、「安全」とは客観的なものという点で異なる。そう言われると、確かに腹落ちする。

 

数値や科学的根拠を示すことで「安全」を担保することはできるが、それによって「安心」を当人が抱くかどうかはわからない、ということだ。

 

例えば耐久強度の試験を何度もパスした「安全」なゴムを装着しても、高所恐怖症の人が「安心」してバンジーを飛べるかどうかは話が別なのを考えてもわかる。

 

ここから更に以下の解釈を読んでいくと、この二語がそれぞれ言わんとすることが、おぼろげながら一層クッキリと見えてきた。

www.mukogawa-u.ac.jp

www.soumu.go.jp

 

・・・ここまで踏まえて、ではなぜこれらの2つの要素をきちんと設計することが、僕にとって非常に大事だと思えるのか。その理由は死ぬほどシンプル。

 

これらは組織の風土・文化・雰囲気における車輪の両軸であり、どちらかが欠けていればその時点で、対外的にも対内的にもアウトの状態だから、である。

 

さらに言えば、僕はどちらかと言えば、「安心」が先だと考えている。でなければ、一瞬で組織がばらばらになる未来が見えるからだ。

 

実際、不安や疑問が蔓延するグループなりコミュニティなりが繫栄し、持続していくことなど、ありえないのではなかろうか。

 

十分に研修を積む機会を与え、教材等の必要物品は可能な限り準備し、諸々の連絡が風通しよく流れるように配慮し、固定給をきちんと払う。

 

「安心」を生むことができれば、おのずと「安全」の水準に行きつくはず。机上の空論めいているが、僕はそう信じている。ただこれは正直、ニワトリタマゴなのだが。

 

もちろんここには覚悟も問われる。異物たる存在が発生したとき、僕はそれを切り捨てられるのか?成長のために、旧知の仲間を置いていけるのか?

 

「安心・安全」を維持することは優しさや甘さの象徴と言われるが、現実はむしろ真逆。時には冷酷になって心を殺さなければ、この二つをつくることはできないのだ。

 

残された期間は少ないが、如何にして自分なりの安心と安全をつくっていくか、そもそも僕が思うそれは何なのか、もっと磨き上げて言葉にしていく所存である。

 

終わりに:勝手にやってます、「プレ・マネジメント」。

 

何かしらのプロジェクトを率いてみるという経験が、結局のところ一番、マネジメント能力を高めてくれると感じている。

 

例えば、自分の理想、現実との折り合い、意見の衝突・すり合わせ。そういう部分は、漫画や小説、実用書を読んでも、なかなか染み込んでくるものではない。

 

ただ逆に、一回でも体験として経験値があれば、そういった教えもガンガン吸収できる気がしている。頭の中に知識としてあるだけの事柄が、繋がる気がしているわけで。

 

やはり安全地帯で吠えるのは情けない。だが機会をくれといっても、くれるものではない。ではどうするか。

 

仕事以外の場で、類似の環境を自分で勝手に作って、そこでコツコツと力をつけるしかないと僕は考えている。

pdca-school.jp

 

だから曲がりなりにも色々やってきた。少しずつ、管理者のジレンマたる部分もわかってきた。だが同時に、周りの人の怠慢と考えていい部分も見えてきた。

 

ただのある種作業員という現状に不満を抱くだけなら、その辺の中学生でもできる。その中で頭一つ出るためには、勝手に自分で経験値を得ることだと今は納得している。

 

何度も自分に念を押しているが、僕は35歳を目処に、指導する側から引退する。そのためには何をすればいいかを、今は考えているところである。

 

―ということでちょっと結びとして微妙だが、今日はこの辺で。

 

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