気付けば「ちいかわ」グッズを校舎に置こうと考えて、キャラクターグッズ公式ショップを眺めていた中元です。
はい。僕は「責任は俺が取る」という言葉が大嫌いなのだが、それと同じくらい不快な言葉として、「報連相」というのがある。
なぜこの言葉が嫌いなのか、そこに至るまでの出来事を思い返してみたが、正直それを徹底したところで僕自身に良いことがほっとんどなかったから、というのが大きい。
今はそれがどちらかと言えばよくないこととは思いながらも、「報連相」は極めて最小限なそれに留めている。つまり、僕の校舎ではロクに機能していない風習だ。
ということで今日は、他山の石にでもしてほしいという願いを込めて、報連相が機能しなくなるまでの前提やプロセスを書いていこうと思う。
いずれも当事者(特に報連相を受ける側)からすれば、些細なことに聞こえるが、そういうところからシステムというのは綻ぶものなのだとよくわかる。
では以下、本題である。
「報連相」に興味を示されないことから始まる不信。
「報連相」嫌いの第一歩は、それに興味を露骨に示されなかったことが連続したのが大きい。
講師から出た要望、ご家庭からの一言、自分が思うちょっとした不明点。それらを伝えても、「ふーん」とあしらわれることが、2~3回続いたのだ。
多分本当に興味が無かったのだと思うが、そういうのを受けると、自分の中で報連相すべき事柄のハードルが少しずつ上がる。だからそれらの回数が減る。
減ってくると、「もっと報連相してこいよ」と軽く突かれる。だからそうすると、やっぱり興味を示されない。もはや、ただただ面倒なだけである。
もちろんこの段階だと、まだこちらにも非があると思っていたので、「正しい報連相の仕方とは何か」ということを勉強し、それを使ってみたこともある。
ただ、何度やっても暖簾に腕押し。特に具体的な手を打つわけでもなく、しかし現場からは要望が次々上がってくる状態だったので、仕方なく僕が行動することになる。
いわば僕が独断で手を打ったという話なのだが、それについてのリアクションこそが、僕を徹底した「報連相」嫌いにすることになるのであった。
僕が決定的な「報連相」嫌いになったワケ。
僕が独断で行動したことがばれた際の反応はいつも同じ。越権行為許すまじと言わんばかりの激怒である。上手くいっても、そうでなくても、激怒だった。
最初は猛反省して完全に委縮したものだが、2,3回と筋の通らないカミナリを食らっていくにつれて、段々何も思わなくなっていった。
怒られている最中は申し訳ない顔をしつつ、全力で「すんません感」を出しながらも、それによってどんな風に校舎が変わったかということだけ気にしていた。
特に解決することが無ければしれっと元に戻し、解決すればそのままナァナァにし。そういうのを繰り返している。
そして挙句の果てには、クレームの報告を入れたら「がんばれ」とだけ言われてサッサとはしごを外された、ということも経験している。
報連相と聞くだけで異常な不快感を覚えるようになったのは、大体この頃である。未だにその言葉を上の方々が発するたび、すごく嫌なものを聞いた気分になる。
ちなみに今はどうかと言うと、表向きにはルーティン業務以外、何も仕事をしていないように振舞いつつ、裏でこそっと色々動くようにしている。
何かしらの数値が出たり、本当にどうにも他にお願いする人がいないときだけ、声掛けをすることにより、報連相もどきを行っているような感じだ。
興味も示されず、行動すれば越権行為だと怒り、問題を報告すればはしごを外される。ある種テンプレなあれこれだが、これが重なれば誰だって面従腹背だ。
過去に僕が不信感を抱くようになったリーダーたちは、得てしてこういう自分中心の言動が、露骨に目立っていた記憶がある。
ただここまで共通するということは、そもそも人は肩書を得ると変わってしまうものだという証左なのかもしれない。
いずれ僕も油断すると、まだそちら側に堕ちるリスクがあるということなのだろうか。怖い話である。
リーダーは何を知り、何を承認し、何を託せばいいのだろうか。
大嫌いな言葉だと自覚している反動か、「報連相」をうまく機能させている組織は、何を心掛けているのかが、最近気になっている。
ただしリーダーシップ論は千差万別であるため、率いる人の個性やチームの顔ぶれ、業種によって取捨選択する必要があるのは間違いない。
だから調べはするが、試してみて経過観察を慎重に行う、というのがここ1~2年自分が心掛けていることである。
その中でも、「これは必須のポイントのようだ」と思えるものに絞り、経過報告ということで紹介してみる。
まずは、「報連相に対する安心・安全」の確保だ。要は、「ネガティブな反応は絶対にしないこと」が、完全に社内で徹底されているということである。
これが実際に機能している組織としては、真っ先にピクサーが頭に浮かんでくる。アイデアは共有し、皆で磨き上げ、しかし監督や脚本家の個性は殺さない。
あるいは識学みたいに、淡々と事実だけ報告を受けたら、感情的に責めることはせず、達成したらその事実を認め、不達なら対応だけを聞くことに徹する、とか。
要は、報連相を一貫した態度で受け止めることが大事なのだと思われる。リアクションが決まっていれば、報連相する側も心の準備ができるという話。
本来、人は失敗を隠したいという本能がある。それに逆らうということは、生物として不自然なことなのである。工夫が無ければ維持できるわけがないということだ。
「どんな反応をされるだろう・・」という不安がちょっとでも翳れば、報連相は滞ること間違いなしとみていいのだろう。甘い話に聞こえるだろうか?ただ僕はそう思わない。
そしてもう一つ共通していて面白かったのが、そもそもリーダー側が完全にブラックボックスを破壊しているという点だ。
中で何をしているのか、どういう目標を抱えているのか、価値観はどうで、失敗についてはどう反応するのか、はたまたなんで報連相を求めるのか。
そういった「テメェで考えろ!」という一言で唾棄されそうなあれこれを、意識的に察知し、徹底してクリアにして伝える。その努力がすさまじい。
藤田晋氏は、「リーダーはガラス張り」といった言葉を使っていた。この言葉にすごく腹落ち感がある。
これは簡単に聞こえて、実はかなり難しい。皆は僕の何を知らなくて、僕の何を知りたいのか、当人たちも言語化できていないとみて間違いないからだ。
人の不満を受け止めて言葉にするのは結構タフな作業だが、逃げずに立ち向かいたいと改めて思った。
―ということで、書きたいことは書いたので、今日はこの辺で。