精神年齢9歳講師のブログ

校舎での出来事、読んだ本、つまりインプットを全てアウトプットに変える実験場、的な。

「べきだ」は地獄の始まり。

ちいかわの中では、くりまんじゅうが今のところ一番好きというか、親近感が湧くキャラクターな中元です。(次点はポシェットの鎧さん)

 

はい。つい最近、改めて人間の思い込みというか、バイアスの強さと無自覚さを思い知る出来事があった。それは、冬季講習における人選の際に発生したことだ。

 

今回の講習の申し込みコマ数は結構調子が良く、前年度比でざっくり120%くらいの売り上げとなった。となれば自然、誰に担当させるかが問題となる。

 

僕は自分の校舎の顔ぶれを考えた際、とにかく「女性非常勤講師の比率が少ないこと」と、「新人の雇用が弱いこと」が課題だと思っている。

 

だから冬季講習は、それらをカバーするため、新人の女性講師を優先的に起用しようと考えていたわけだ。しかし、それが難航した。

 

既に他の校舎からもオファーが殺到していたようで、僕は出遅れた形になり、断られることが続出。

 

さらにはあてにしていた講師も多忙のため、思ったよりは出られないとの相談があった。余裕をもって弱点の補強に当たるつもりが、逆にピンチになる有様であった。

 

これをどう打破したものかと昨日は自習室に引きこもって、終業後に頭を抱えていたのだが、答えは出ず。煮詰まっている感覚があったので、その日は終わりにした。

 

―帰宅後、いざ就寝しようという段階になり、脳のスイッチを切るために読書をしている際、本当にふと、どうして今まで気付かなかったのかと思うことに気が付いた

 

それをしげしげと考えるうちに、ある種「悟る」感覚があった。

 

あぁ、「べきだ」は地獄の始まりだなあ。

 

今日はそんなお話を書いていく。

 

 

視野狭窄を生む「べきだ」という考え方。

さっき気になって、「視野狭窄 バイアス」というワードで検索をかけてみた。どんな認知バイアスの影響により、そうなっているのかを知るためだ。

 

すると、そもそも視野狭窄自体が、認知バイアスの名称の1つと紹介する記事が見つかり、目から鱗が落ちるのを感じた。

nogunori.com

 

確かに視野狭窄とは、何かを決断する際に、選択肢が1・2つ”しかない”と強く思いこむことを指す。そしてこういう思い込みに嵌ると、必然的に選択も鈍ってくる。

 

しかし、似た話は、普段問題集の問題を解く際にも起きる。AかB、どちらかが正解のはずだと思い込んで呻吟していたら、正解はCだった、という話に近い。

 

「どちらかのはずだ、この選択肢から選ぶべきだ。」こういう思い込みは想像以上にパワーがあるし、そしてびっくりするほど無自覚である。

 

一体どうすればそれに気付けるのか。その謎についても、実は先ほどの記事に大きなヒントが書かれていた。丸ごと引用してみよう。

 

わかりやすくいえば、1つか2つの選択肢しか目に入らず、広い視点でものを見ることができない状態のことであります。

たとえば、高校生の頃私たちは「どの大学に進むか」という視野の狭窄に陥ってしまいます。

そうではなく、「どんな人生を送りたいか」という広い視野を持って、大学に進学するか、それとも就職したり起業したりするかを決めるべきです。

この視野の狭窄に陥らないためには、「もしこの選択肢がダメだったら」と考えるのがおすすめです。

「もし大学に進学しないとしたら」と考えると、「そもそも自分はどんな人生を送りたいのか」という本質的な問いにたどり着けるかもしれません。

意思決定をジャマする4つのバイアス(偏見)に気をつけようby『決定力!』 - BBD

 

この話を読んだとき、思わず文字通り膝を打ちそうになった。僕の中で点として存在していた経験値同士が、バチっと繋がる感覚があったためだ。

 

僕の中で「あれはいい判断だった」と振り返ることができる決断やアイデア、選択は得てして、当初浮かべていた選択肢が諸事情でポシャったあとの次善策である。

 

第1・第2の選択肢両方が潰えた後、止む無しで打った手が、結局一番機能する。そういう経験値はたくさんあったはずなのに、今の今まで全く気付けていなかった。

 

むしろ最高の手を打てていれば、もっといい成果だっただろうなぁとどこか勿体なく思う気持ちさえあったわけで。それすらも、結局はおめでたい勘違いなのだろう。

 

「で、これらの選択肢両方がダメだったらどうする?」という問いかけは、ごく自然に自分に対し、広い視野とさらなる準備を促す

 

気付くことすら至難の業だが、自分の内面をしっかりと観察し、視野狭窄に陥ったらそれを正せる上記のような自問ができるよう、修行を重ねようと思う。

 

次善手を最高のそれに”していく”という発想。

いつぞや「期待」に関する記事を書いておいてアレだが、「べきだ」による視野狭窄もまた、「期待」によって自分の思考が停止している状態だと気が付いた。

jukukoshinohibi.hatenadiary.com

 

「べきだ」とはある種最高の”選択をする”ことが全てであり、イメージとしては、既にある答えや未来の内一番いいものを引っ張ってくる、という感じがする。

 

いわば、ドラフト会議で獲得しうる最高の布陣をイメージし、それを引かねばならないと強く決意するのに似ている。これはある意味、単なる運ゲーなのだが・・。

 

最高の選択をするべきだ、だから完成品をどうやって持ってこれるかそういう風に心を砕くような思考を僕もしていたのだろう。だから視野狭窄に陥るのだ。

 

今はもう少し考えが軟化し、「現状多少力量や経験が足りなくても、研修やサポートで自分が求める水準に届くと現実的に思えるなら、任せてみよう」と独り言ちている

 

いわば、最高の手に”していく、育てていく”ということだ。そもそもそれこそが社内教育であり、研修の意義である。なんと失礼かつ傲慢なことを考えていたのだろう。

 

最高の人を獲れればいいが、ぶっちゃけ育てたり任せたりすれば、なんとでもなる。決断はしてからの方が大事だと言われる手前、これくらい図太くていいのかもしれない。

 

終わりに:社内教育に興味がないことのダークサイド。

 

僕自身もその沼に片足を突っ込んでると気づきゾッとしたのだが、実は将来的に見限られるリーダーの特徴の1つに、社内教育に興味がない、というものがある。

 

「人を育てるとか面倒だ。既に育った人材を俺の下に送ってこい」というメタが伝わるのか何なのか、とにかくこういう価値観が伝わると、負の影響があまりにも強い

 

実際、教育や成長、新規分野への進出といった風に「新しいこと」を制度や文化として取り入れていない組織はゆくゆくは腐りゆくといった指摘は、以下の大著にもある。

いつだって、気付いた刹那が修整の最適なタイミング。早速、手広く色々な講師にアタックを開始することにしよう。

 

足りない部分はみんなで補えばいいのだから。ということで今日はこの辺で。

 

 

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