今日は忘年会なのですが、繁忙期に既に入っていて年を忘れられる気がしないので、あまり行きたくない中元です。
はい。Ghost of Tsushimaで描かれたシーンも登場し、いよいよ本格的に【侵略時】の話になってきたこの洋書。
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一旦ペースが落ちていたが、多読の原則を思い出し、なるべく辞書を引かないといった心がけに戻したところ、あっさりと解決した。(しかも割と読めるし)
生徒にも伝えたい小技を今でも発見できることに感謝しつつ、今週も元軍襲来の話を書いていこう。
- 12月19日(月) 斃れゆく英傑
- 12月20日(火) 果て
- 12月21日(水) 壱岐、蹂躙さる
- 12月22日(木) 兄弟の敵
- 12月23日(金) 若き英傑
- 12月24日(土) 海戦
- 12月25日(日) 憤怒
12月19日(月) 斃れゆく英傑
モンゴル軍の攻撃は凄まじく、雨のごとき弓矢と、圧倒的な戦力差に、対馬の防衛軍は一瞬にして壊滅の憂き目に遭うこととなる。
情報網さえモンゴル軍の統制下に置かれ、本土への救援も遮断、果ては男はほぼ皆殺し、女は船へ拉致といった、まさに徹底した破壊活動が行われたのであった。
―しかし事前に壱岐への伝達はなんとか回せたらしく、壱岐の武人は来るべき猛襲に備え、準備を開始するのであった。
ただ、壱岐にはプロの先頭集団たる武士は少数しか配置されておらず、大半は武装した漁師とか、といった具合だったという。
しなしながら武士をも凌ぐ「俺たちが守り抜く!」という気迫により、その頼もしさたるや、本職顔負けだったという。
―そしていよいよ、モンゴル軍の急襲を迎え撃つこととなるのであった。
12月20日(火) 果て
気概こそ敵に劣らぬ壱岐の軍勢であったが、やはり多勢に無勢。圧倒的兵力差・戦力差に押され、籠城を余儀なくされることとなる。
そしてその際、守護代である平景隆は敗戦を悟り、自害して果てることを決意する。ただそのとき、家来の宗三郎に、こんなことを伝えたという。
「お前は生きて、救援を呼べ。そして・・わが娘を頼む」
その命を受け、宗三郎は、泣きぬれる姫と共に脱出し、船で救援を呼びに向かうも・・。海上自体もモンゴル軍に封鎖されており、矢の雨を受けることとなる。
そしてモンゴル軍が放った毒矢の一つが姫に当たってしまう。それにより死にゆくさまを見せたくなかったのか、船中で姫は自害して果てたのだという。救われない・・。
一方宗三郎は奇跡的にその中を生き抜いて、本土へとたどり着く。その頃壱岐では、モンゴル軍による蛮行で、島中が蹂躙されている最中であった。
12月21日(水) 壱岐、蹂躙さる
島に残った人たちの命運も既に決まったようなものであった。城に雪崩れ込んでくるモンゴル軍を矢で射らんと、構えた武士たちの目に飛び込んできたのは・・・
手に穴を空けられて繋がられた、原住民たちであった。それを横に展開し、部隊の前に並べることで、いわば人間の盾としていたのだ。
この惨状に矢は放てず、武士たちは刀だけをもって大群に突撃し、そして散っていった。勝敗が完全に決した瞬間であった。
元軍はその後無差別に住民を拉致しては、船の両側にぶら下げて矢を防ぐ盾にするなど、真偽不明な野蛮さで暴れまわり、壱岐対馬を蹂躙するのであった。
勢いは冷めやらず、そのまま船を新たな目的地へ向けて進めるのであった。そこは大宰府。いよいよ本土が狙われたのであった。
12月22日(木) 兄弟の敵
日本遺産・太宰府と元寇ゆかりの地・鷹島 |西遊旅行の添乗員同行ツアー(147号)
壱岐対馬が蹂躙されたという報せは、瞬く間に九州に広まり、義憤に駆られた武士たちの結束と集結を生み出すこととなる。
天智天皇の頃から九州北部は防衛の拠点として要塞が建造されていたのだが、当然それらは数百年を経てロクに機能しない遺物となっていた。
それを北条時宗の指示で修繕したのみならず、最新の設備で完全に作り変えていたのだ。モンゴル軍の襲来は、その地で迎え撃つこととなる。
―そんな怒りに滾る武士たちをさらに激怒させたのが、モンゴル軍の蛮行であった。壱岐対馬で捉えた人たちの手のひらに穴を空け、そのまま船の側面に吊るしていたのだ。
九州を防衛する武士たちの憎悪たるや甚だしく、中には12歳の少年さえ、志願して前面に飛び出した、なんて話もある。
いよいよ第三の戦いが始まった瞬間であった。
12月23日(金) 若き英傑
日本遺産・太宰府と元寇ゆかりの地・鷹島 |西遊旅行の添乗員同行ツアー(147号)
上陸せんとする元軍を切って捨てつつ、日本は必死の防衛戦を展開する。そして前線で戦う部隊に合流した者の中に、若き英傑がいた。
先ほども少し触れた12歳の少年、少弐資時(しょうに・すけとき)である。
一番乗りを挙げるや否や矢を放ち、将軍格の兵隊の胸を射貫くという伝説の持ち主である。これにより、蒙古の一部軍隊は散り散りになり、戦況が変わることになる。
日本軍が仕掛けた罠に用心して夜襲は控えるべきと説く将軍と、一気に攻めるべきだと鼻息の荒い将軍が入り混じり、戦局はさらに混乱を極めていくこととなるのであった。
12月24日(土) 海戦
元寇は艦隊決戦だった。日本水軍は元の軍船を打ち破り太宰府占領計画は消えた | ミライハック
日本からの夜襲は無いと決め込んだ元軍は、兵を一旦引き上げさせて休息を優先し、翌朝体力を補給した隊で再攻撃をかけようと決めたという。
しかし予想に反し、日本側は奇襲を仕掛けた。小舟に乗って艦隊へ接近し、名乗りを上げるや否や、弓・剣での攻撃を開始したのである。
これに対し完全にオフを取っていた元軍は大混乱。船に積んでいた物による火災も発生し、それが暴風によって拡がり、一気に大ダメージが入ることとなったのだ。
戦いが動いた瞬間であった。
12月25日(日) 憤怒
軍の撤退を受け、クビライはこれ以上ないほどの怒りを露わにしたという。ただし今回の進軍により、十分な痛手と恐怖を与えたと判断し、第二回の侵略を計画する。
方々の国から徴兵し、使節団を結成させ、今度は5人の使者を日本に派遣し、服属を求めたのであった。最初の侵略から約7か月後の出来事である。
派遣された大使たちは、遂に北条時宗と直々に謁見することが叶う。だがもちろん、時宗も只者ではない。平和な話し合いなど、望めるのであろうか・・。
というところで、今週はこの辺で。