講師としての自分はあと3年くらいで終わらせると公言しているのだが、ここへきて、自分にとっての授業の矜持に、変化している部分がある。
僕は入社してから今の今まで、入試や定期テストに問われる全ての物事の原理原則を言葉にして、生徒に伝えることこそが、自分が目指すべき指導なのだと考えていた。
自分が言葉に落とし込めない部分があることは、講師としての力量不足を意味する。
だからこそ、そこを如何に意識下に引き上げて、言語化するかに、予習の大部分を充てていた記憶がある。その癖は今でも続いているし、人に求めたことも、実はある。
しかしここ最近、全てを言語化することは不可能だし、言語化することで逆に習得を阻んでいる部分もあるのではと、何か喉に骨が刺さったような感覚があるのだ。
自分の中で正義と思っていた価値観が揺さぶられる感覚。思えば思うほど、疑念は膨らむ。まだまだ伸びるという直感なのか、それとも己の限界に達したということなのか。
まずは一度、きちんと整理整頓してみるべきだろうな。この違和感を言葉にしながら。
ということで今日は、完全に散文的な記事になるだろうが、自分が思う指導の理想像について、思うがままに文字を書き連ねてみる。
言葉にできるものだけが知識ではない。
出会って以来、教育に関して非常に示唆に富む言葉としてずっと気に入っているのが、「メソドス」と「テクネー」という二語だ。
ただしDaigo氏の紹介以外にガッツリとまとまった文献が見つかっていない。そのため結構我流の理解になっていると思うが、僕はこれらを以下のように考えている。
メソドス→言語化された知識であり、言葉や文章といった説明を通じて、他者との共有が可能。
テクネー→言語化されていない感覚・経験といった知識であり、他者との共有が困難。
僕らが一括りに「知識」「情報」「知恵」というものは、実際はこの二つを混ぜたものを指している。そういうモデルを考えると、やはりこちらの方が非常にしっくりくる。
このことを知って以来、最近までずっと、どうすれば「テクネー」を「メソドス」に変えて、生徒に伝えることができるのかを、試行錯誤してきた。
その上で思うのだが、テクネーは言語化して伝えることができないと、最近は思うようになっている。決して、諦めたのではない。そういう性質なのだと悟ったのだ。
むしろ、テクネーとは生徒自身が育んでいくものであり、講師にできるのはその種にあたる”なにか”を渡すことが限界で、しかもそれでいいのではなかろうか。
どういうことか、例を用いて説明してみる。
何らかの武術において、師匠が弟子に何かしらの教えや技を託したとする。つまり、メソドスの伝授だ。しかし、言葉で伝えることには、やはり限界がある。
だから、ある程度の余白がそこに生まれる。ただし、これは欠如というより、むしろ伸びしろだと言える。
だからこそ、受け取った弟子は、そこに自分のテクネーをさらに加えることができ、結果それによって、武術そのものがさらに進化していく、と。
空手一つとっても、あそこまで流派が多岐にわたり、しかも世界中で進化・発展していることを考えると、始めに伝えきらないことが正解なのだとさえ思えてしまう。
こういうモデルを何となく考えていると、言葉にし尽して伝え尽くすことはそもそも不可能で、かつ必要ないことなのだと思えてきた。
それは生徒の考える余白全てを切り取った状態で、こちらが思う知識を一方的に押し付けるような行為に他ならない。それくらい罪深いことにさえ感じられてきた。
しかし「余白が大事だ」などとほざいて演習全振りにすれば、それは職務怠慢であり、すぐさまクレームを食らい、廃業する未来が見える。
最低限のメソドスを伝え、それにテクネーを自分で加えられるような教材・環境を与える。こういう指導ができれば、僕は誰にも負けない講師になれそうな気さえする。
では、テクネーを加えられるような教材とは、なんなのか。これについては、僕の中で全然答えが出ていない。というより出ていたら、こんなに悩んでいないわけで。
例えば英語におけるbe動詞を懇切丁寧に教えることは、野球で言うバットの振り方を全て言語化して語るようなものだと捉えている。なにか違和感を覚える。
本当に使いどころだけさらっと確認したら、いわば九九の如く、大量のアウトプットを重ねることが、ここを修得する最速にして最も効率的な方法ではないかと思う。
ふと気づいたが、数学でも国語でもなんでも、基礎・基本の部分ほど、意外と言語化されていない余白が多い。方程式の解き方は、”そういうもの”とだけ語られる。
この辺を懇切丁寧に書いた参考書が少ないことに当初はやきもきしたが、実際は言葉にする必要が無い、むしろした方が妨げになるのだとしたら?
そう考えれば、「こういうもの」「ここは暗記」という指導も、決して怠慢ではないと肯定できる気持ちが湧いてくるようになった。
ただしそれでも、生徒にテクネーの種は与えねばならない。それすら丸投げしたら、講師など要らないのだ。
これに関して、羽生善治氏も語っていたことで、すごく共感できるものがある。
一回でも実践してみると、頭の中だけで考えていたことの何倍もの「学び」がある。
理解度が深まることで、頭の中が整理され、アイデアが浮かびやすくなる。 新しい道も開けてくるだろう。
次に僕が生徒へ伝えるべきは、この言葉に表された”感覚”。そう勝手に課題を設定し、学年末テストに向けて取り組みたいと思う。
ということで今日はこの辺で。