精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

【同業者向け】2022年の僕を振り返ってみる。そして2023年の”あり方”を考える。

このブログは、書きたいことを思いついた端から書き溜めていくため、実は投稿した日付の4~5日前に書き殴っていることがザラである。

 

ゆえに、いつこの記事がアップされるのかはわからないが、書いている今は12月30日~31日にかけて推敲している状態だ。だから必然的に、振り返りの色が濃くなる。

 

だからこの記事では、特に定まったテーマを設けず、心に浮かぶよしなしごとを、そこはかとなく書きつくろうと思う。目次は書き終わった後につければいいだろう。

 

あやしうこと物狂おしくなってくることを願いながら、したためてみよう。

 

 

行く末、承知の上。

 

2022年で一番の出来事はやはり、独立という意思が確固たるものとして定まったことである。もはや「しなければならない」とさえ考えているほどだ。

 

ここに至る契機は、例えば漫画みたいに衝撃の事件が一発起きた、というわけではなく、積み重なる色々な思いがついに閾値を超えたため、という話だ。

 

そのため、その意志は早い段階で、役員の方々に伝えている。もっとも、「不満が溜まっているから聞いて欲しい」というみみっちいことに思われた可能性もあるが・・。

 

だが現実とは不思議なものである。来年から、僕は既存の校舎の長を引き継ぐことが決まっている。数年間意地でも飛ばなかったフタが、急に吹っ飛ぶことになったのだ。

 

元々2023年は、非常勤講師か契約社員に直ったうえで、1年間たっぷりと独立準備に充てようとしていたのだが、突然先輩の独立が決まった関係で、こうなっている。

 

2022年の早い段階であれば、狂喜乱舞したかもしれないが、今はただ、「来年はそういう使命を貰うんだな」程度の感想しかない。淡々と受け止めている状態である。

 

創りたかった組織。出したかった色。試したかった施策。そして拭きたかった自分のケツ。鬱々と溜め込んだ夢が、一気に、そしてあっさりと叶う。

 

・・・このことを考えると、FFⅦのザックスのセリフが、ふわっと頭に浮かんでくる。ある場面で、彼は確か、こんなことを言っていた。

 

「あれ・・あんま、うれしくない」

 

今の僕も、きっと同じ気持ちだ。実感が伴わない昇進。肩透かしを食らったかのような気分。今の自分の感情が、観察してもわからない

 

この辺は、今の忙しさが落ち着いたら、じわじわと込み上げてくるのだろうか。それとも、意外とこういうものなのだろうか。

 

その答えは、自然と得られるときまで、無理には追わないことにする。

 

心を強くしたい。

ところで、2021年は色々メンタルにパンチを食らう場面が多かった。今回はそれについて語る気は無いが、思い返せば客観的に見ても、結構大変な日々であった。

 

しかしそれと対比するように、今年は表立った苛立ちはぶつけられず、そういう意味では平穏であった。(むしろそれが普通なのか)

 

2021年の一件を受けて、僕はメンバーと自分を守るため、自分が強くなる必要性をこの上なくはっきりと感じた

 

それの翌年である2022年は、そのための勉強と修業に、ひたすら充てたつもりだ。そしてやはりそれらは、自問自答から始めることとした。

 

まずは「強くなる」とはどういうことかという問いを考えることから始まったが、すぐにそれは、抽象的すぎる上に的外れだ、ということに気が付いた。

 

ここでいう"強さ"とは、肉体的なものか、精神的なものか。僕の場合は、筋トレも日頃から行うが、どちらかと言えば精神的な充足と安定が狙いである。

 

つまり、僕が思う”強さ”とは、要するに"心の強さ"である。心を鍛えておかないと、周りの仲間どころか、自分さえ、守れなくなる。

 

しかし、ここでいう心の強さとは、全てのイチャモンを論破し、あらゆる攻撃を力でねじ伏せることなんてのは、全く意味しなかった

 

心が強い人はそもそも、激しない。受け流す。大きな目線で考える。攻撃されても、相手が自滅するに任せる。というよりそもそも、意識下に持ってくることすらしない

 

ただし、仲間が脅かされたときは徹底的に戦う。こういう行動を取れる人は、つまり心が強い人なのだと、今は納得している。

 

力ではなく、ある種の愛と懐の大きさで周りの人たちを受け止める。そして己に向けては、感情をブレさせないという優しさを常に施している。

 

ただ現状、ここまで問いを進めたところで止まっている。具体的な行動に起こした部分もあるが、理念がまだブレているため、一貫性に少し弱い。

 

それにそもそも、こういう心の在り様を目標として、狙って自分の心を鍛えていくことは可能なのだろうかと、まだまだ不安な部分はある。

 

ところで、孔子は三十にして立ったというが、この部分の解釈の1つを読むと、こう書いてあった。

 

「三十にして立つ」は、社会で自立していけるだけの人物に成長し、「自分を磨き、よき家庭を築き、国を治め、天下を平和にする」という技量を身につけたと確信できる境地に至ったことを意味するという。

dsupplying.hatenadiary.jp

 

誰かに過度に甘えず、リーダーや指導者でやっていけるという肚が決まった。そういう意味だろうか。であれば、孔子の修行は、むしろここから始まったのではないか。

 

僕は31歳だが、自立を果たそうと自問自答を繰り返している。しかし孔子もまた似たような状況だったかもしれないと思うと、少しだけ気が楽になった。

 

課題が山積していると自覚しているだけマシか。2023年の自分に、たくさん有意義な宿題を残せそうなことを、今は少しだけ嬉しく思っておくこととしよう。

 

終わりに:2023年は、こう”ありたい”。

 

今までは、何をするかということを言葉にして、目標として書き並べていた。例えば3年前なら、英検1級の取得が最たる目標だったように。

 

しかし今は、そういう目標になり得るものが、何も浮かんでこない。具体的な数値も、理想的な組織モデルの具体例も、何もかも、だ。

 

これまでならそういう状況を「体たらく」として、己を責めるようなことをしていただろうが、今はもう、流れに身を任せるという心境に近い。

 

確固たる信念というものは、具体的な行動や数値ではなく、抽象的な像に置いておくべきではないか。矛盾するようだが、最近はそんなことをぼんやりと考えている。

 

2023年は、今このときを大切にしたい。そう思っておくだけで、十分な気がしている。

その時々に感じる不安も、苛立ちも、悲愴も、ちゃんと知覚し、きちんと向き合う。

 

定常不変に思える雲も、じっと眺めていれば緩やかに流れ、形を変えていく。万物は流転する。今この時は一瞬しかない。それを無下にしない自分でありたい。

 

なんか少し悟り切った感じに聞こえるが、なんてことは無い。いつだって心をオープンにして、「面白そう!」と思ったアイデアや思い付きに飛びつくというそれだけだ。

 

僕は2023年も、精神年齢9歳でありたい。結局、ここに落ち着くんだなぁ。

 

―ということで、少し肩透かしを食らわせてしまうような終わり方だが、僕としては十分満足しているので、この辺で終わりとしよう。

 

では、今日はこの辺で。

 

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