精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

「年を取ったら涙腺が緩む」のは、豊かな人生を送れている証拠ではないかと思えてきた。

新年と言えば駅伝だ。リビングに行けば、両親がそれをダラ見していることから、僕も自然と目にすることになる。

 

実はそこまで興味が無いのだが、今年の駅伝を見た際の、自分の反応に驚いた。懸命に走るランナーの姿に心が揺さぶられ、マジで涙が滲んできたのだ。

 

僕は今、31歳だ。年を取ると涙腺が弱くなるというが、それは本当のようだ。急ぎ自室に引っ込んで昂りを鎮めてから、なんで感動したのかと、少し考えてみた。

 

今日はそんな思索という名の言い訳を、つらつらと書いていく。

 

 

【感動】とは何か?

 

僕とマラソンの接点は、ほぼない。しいて言えば、小学3~4年の頃、父親と広島国際平和マラソンに参加したことがあるという、その程度のことである。

 

だから、あれだけの走りを成すための懸命な努力について、共通する思い出も苦しみも、僕の中にはないはずなのだ。なのに今回は、感情が乗った

 

心が動かされているとき、そこでは何が起きているのか。少し調べてみて、「なるほど」と思ったのは、以下の記事のこの部分だ。

 

原野氏は、感動の原理を『〈愛〉と〈尊敬〉』と定義する。これが、生き残れた人類の持っていたプログラム。集団を形成するというプログラムとその集団から適切なリーダーを選び出すプログラムだ。

集団は〈愛〉によって形成される。つまり、同じモノが好き。同じ日本が好き、ビートルズが好き、Appleが好きという感情。そして、リーダーは〈尊敬〉によって選出される。

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感動とは、その対象に対する愛と尊敬が同時に起きている感情。こう考えると、納得すると同時に、新たな問いが出てくる。

 

僕はなぜ、懸命に走る姿に愛の感情を覚えたのか?繰り返すが、僕には駅伝という人生経験は一度もなく、共感する要素など、無いはずなのだ。

 

―ここからは仮説になるのだが、実際は少し、思い当たる節はある。

 

それは自分の中にも、長い期間努力して、本番というステージでそれをぶつけて、よくも悪くも結果が出るという経験をいくつもしたということだ。

 

例えば大学受験に合格して泣いたあの日、英検1級の二次試験に落ちて絶望したあの夜。その記憶に残る感情が、選手の姿を見て、無意識下で蘇ってきたのではないか。

 

また、努力の果てに泣いた生徒、笑った生徒の顔も、いくつも見てきた。そういう心揺さぶる思い出が、その時の感情を伴って連鎖し、共鳴したのかもしれない。

 

共感と愛は、実は非常に近い感情なのではないか。そう思うと、僕があの場で感動した理由が、見えてきた。

 

そして同時に、年を取ると涙腺が緩む理由も、何となくわかってきたように思う。続いてはそれを起点に、記事を書いていこう。

 

経験値という観点から、「年を取ること」を考える。

 

年を取るとは、つまり時間の経過であり、そこには必然、経験値の蓄積を伴うはずである。

 

だからこそ、いわゆる「豊かな」生き方ができていれば、膨大で立体的な経験値が、自分の中に形成されていることなのだろう。さながら、巨大な立方体のように。

 

そしてそれが十分に広く、そして大きければ、他者の努力する姿に共感する機会は、当然増えてくる。結果、感動することが多くなるのも自明のことだ。

 

これこそが、年を取ると涙腺が緩むことの一因ではないか。そう思うと、少しネガティブに聞こえるこの言葉が、とても素晴らしい真理のように思えてきた。

 

僕は他者からの感動を受け取るアンテナの感度が、年々高まっているということなのだ。これは僕の感受性が、日々研ぎ澄まされつつあることと同義と言ってもいい。

 

少し変なカミングアウトだが、僕は卒業式というイベントで、一度も涙を流したことはない。大学のそれに至っては、遅刻していくほど、重要視していなかった。

 

だが今は、例えば生徒の卒業式に行こうもんなら、頼もしくなった姿、感動に震える様子、親の心中、先生の胸中に揺さぶられ、心配されるくらい滂沱の涙を流すと思う。

 

あのときは見えていなかった苦労、心労、未来から振り返った際のかけがえのなさといったものが、今はよく見えてしまう。だからこそ、感動でき、泣けるのだ。

 

僕は昔、感情的に鈍感な自分を誇りに思っていたところがある。今思えば、それは心を震わせるエネルギーを掴む力が乏しいと吹聴していただけだ。恥ずかしい。

 

―僕は今後も、色々なエンタメに接し、他者の人生に触れて、感情を読み取る、理解するという経験を積み続けたい。

 

頑張る人に、嫉妬ではなく応援をしたい。結果が出ずに涙する人に、冷笑ではなく労いの言葉を贈りたい。そして報われた人に、難癖をつけず素直に賞賛したい。

 

涙腺などバカになってくれた方がいい。感動できること、共感できることは、本当に素晴らしいことなのだ。少なくとも僕は、心の底からそう納得している。

 

―とはいえ、年を取れば、人は不思議と偏屈になるという話もある。童話を読んでも、意地悪で頑固な老人は何人も出てくるものだ。

 

こちらは一体何がどうなればそう転じていくのか、現時点ではまるで見えてこない。そちらについては、別の機会に考察を深めてみたいと思う。

 

それでは今日は、この辺で。

 

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