精神年齢9歳講師のブログ

校舎での出来事、読んだ本、つまりインプットを全てアウトプットに変える実験場、的な。

やはり、心がブレているときこそ、自分の心を観察する絶好機である。

今日までが正月休みなのだが、その最終日にしれっと退塾の申し出を食らった。しかも数年継続してくれているご家庭で、ついこないだも楽しそうに授業をしていたのに。

 

退塾の申し出自体は何度も受けている話だが、頻度で言えば数ヶ月に1度程度なので、やはりなかなか心が慣れてこない。(そもそも、継続的に何発も食らうのは大問題だが)

 

こういう話を受けると、否が応でも心はブレる。上手く形容できないが、とにかくブレている自分を感じている。

 

だが今回は、いつもとは少し、考えていることが変化している。これまでは答えの出ない推論と自責に終始していたのだが、今は観察の絶好機だと考えているのだ。

 

単に「ブレている」という解像度の低さから、さらにそれを内省し言語化していくことで、自分のメタについて新たな知見を得られるのではないか。そういう予感がする。

 

ということで以下、具体的な策を用いて、このブレを言語化してみた記事である。心が弱いという自負がある人向けなので、お時間あるときにぜひどうぞ。

 

 

そもそも、自分の心をどうやって観察するか?

 

当然ながら、己の心の内というのは見えないなにかだ。その”なにか”を言語化しようといっても、己をしっかりと見つめる、という抽象的な答えしか浮かんでこない。

 

だからまずは、そのための方法を徹底して真似る。ここは【観察力の鍛え方】にあやかるのだ。

 

本が手元に無いのでアレだが、特に応用できそうなアイデアを2つ、思い出した。それは以下の2つだ。

 

①愚直にディスクリプションする。

 

②他人の表現や解釈を参考にする。

 

まずはここから、自己観察を始めていこうと思う。

 

①愚直にディスクリプションする。

 

言語化の始まりは、対象についての情報を、徹底して客観的に言葉にしていくことであると書かれていた気がする。そして、これこそがディスクリプションである。

 

すなわち、これがドミノの一枚目。だからまず、くだらなくても、みみっちくても、自分が思っていること、身体に出ている反応を、全て愚直に、一気に言葉にしてみる

 

報告を受けた瞬間、頭から血の気が引くのを感じた。何が悪かったのかと、罪悪感がこみあげてくる。担当してくれた講師への申し訳なさも抱いた。

 

すぐに電話しなければ上司に怒られて倍面倒だという考えがある。ケツを自分が全て拭けないことへの苛立ちも感じている。理由が知りたいという不安が強まっている。

 

退塾を止めるための話をして露骨に不満をぶちまけられないかという恐れもあるが、言われるだけマシだという天使の部分も語りかけてくる。

 

生徒の人数が先週増えたのだが、減ったことで差し引きゼロかと落胆する気持ちもある。冬季講習の申し込みもあったのにと、どこか裏切られたような感覚も抱く。

 

肋骨の下あたりにずしんと重たいものを感じる。また、他の何をしていても、頭痛がズキンと痛むように、すぐにそのことが頭に浮かんで、気を取られてしまう。

 

今は大体メッセージを読んで1時間くらい経ったところだが、最初に比べたら動揺しているという感覚は弱まっている。10分前後で、それが弱まりだした実感がある。

 

―というところか。もうこれ以上は、頭から何にも出てこない。しかし、愚直にディスクリプションしてみると、自分のブレの正体がぼんやりと掴めてきた

 

僕は今、複数のネガティブな可能性を、全て同時に頭に浮かべて、たじろいでいるのだ。自分で勝手に敵を何体も召喚し、「コマンド?」と己に迫っている感じだ。

 

悪い未来を想定しておくこと自体は悪くない。問題なのは、それがちょっと悲観的過ぎるのみならず、関係ないモノまで含まれている点だろう。

 

だから上記のディスクリプションした内容を整理すると、今自分がやるべきこと、やるべきでないこと、後で折り合いをつければいいことなどが見えてきた。

 

まずは電話をして理由を聞く。こちらの施策で止められそうなら提案する。どうにもならない不満や事情なら、クロージングする。

 

報告や事後策についても僕は気にしているようだが、その情報を得てからでないと、実際は考える意味が全くないとわかる。

 

最初のダンジョンを攻略する前に、その次のボスを妄想して対策を考えるのに等しい。なんという無駄なことをしているのか・・と、あきれる気持ちも湧いてきた。

 

さて。この時点でディスクリプションの効果はてき面なのだが、これは客観的であることを心掛けつつ展開したとはいえ、あくまで、極めて主観的な描写である。

 

だからここに、客観性を加えていくのが次のステップとなる。

 

②他人の表現や解釈を参考にする。

 

僕が感じているものを、他の人たちはどう解釈しているのか。ディスクリプションがきちんとできれば、その言葉を使って検索ができ、それを知ることができる。

 

僕が今感じているのは、「離別」「不安」「苛立ち」といったところだろうが、特に強く感じるのは、「離別への不安や寂しさ、儚さ」といったものだ。

 

この感情を、他の人はどう見ているのか。これを調べてみると、素敵だなと思うブログと言葉に出会うことができた。順番に紹介しよう。

 

まず「はっ」としたのが、この記事に書かれていたこの部分だ。

 

でもね、去るものを追ってはいけないんだよ。

 

去る者は去りたくて去るわけなんだからね。 出合うのも「縁」ならば、 別れるのも「縁」、 結ばれることも「縁」、 離れることも「縁」だからさ。

 

だから、別れって、淡々とその人の幸せを願って見送ればいいような気がする。

 

note.com

 

この文を読んだとき、頭に諸行無常という言葉が浮かんできた。そして人の縁というものも、繋がっては切れるという変化を絶えず繰り返すのが自然なのだと。

 

それに加えて、仏教における愛別離苦という言葉も、すごく心に染み入ってきた。愛というには大げさだが、似た苦しみの根源を今も抱いていると思ったからだ。

 

「今までも継続してくれた。これからも継続してくれるだろう」という信頼。本来は客と企業という関係なので、個人対個人よりも遥かに心許ない縁のはずだが・・。

 

しかしそれもまた、極論だが最終的には死をもって、絶対に分断される。別れは必ずある。別れが無いと思うから、執着が生まれ、辛いのだ。僕はそう考えた。

 

浅い理解なのは承知の上なのだが、【執着】の気持ちがこのやり取りにあるかないかで言えば、それは確実に存在すると思う。だから今、心が少し苦しいのだ。

 

改めて、こういう離別は、自然現象のようなものだと納得する。それくらい鷹揚に、かつ広い心で構えておくのが、ちょうどいいということなのだろう。

 

―もちろん、例えば人の出入りが極端に激しいといった場合は、ビジネスとして大問題を抱えているので、それをむやみに推奨することは無責任なのだが・・。

 

気持ちに折り合いがついて冷静になったら、他者の課題ではない部分を切り分けて、システム改善に活かしたいと思う。

 

行動前の不安は、必ず振り返るべし。

 

佐渡島庸平氏は、同著の中で、ネガティビティバイアスについても触れていた。

daily-psychology.hatenablog.com

 

簡単に言えば、ネガティブな情報や予測に強く反応し、行動や人間関係に影響を及ぼす心の持ちようを指す。

 

しかし、ネガティブな未来が数多く浮かぶことは、同時にそれが発生する可能性が高いことを意味はしないのだ。他人に対しては、そう助言することも多い。

 

カーネギーの「道は開ける」においても、「数値で見れば、悲観的な未来などまず起こらない」と説かれていた。これは絶対的な真理なのだと思う。

 

ただ自分事となると、頭で分かっていてもなかなか踏み切れない。悲観的な未来ばかり想像できてしまい、バイアスの強さをひしひしと感じている。

 

このバイアスを解くにはどうすればいいか。佐渡島氏は、振り返りの時間をきちんと取って、検証することまでセットにする、と説いていた。

 

想定していたことは起きたか?現実はどうなったか?そもそもネガティブな未来として自分が考えたことは、本当にネガティブなのか?

 

そういう目線で考える時間が後にあると思うと、結構安心する感じを抱いた。今僕がするべきことは電話であり、精神的な反省は後の話なのだ。それが理解できた。

 

やはり課題は一つずつクリアしていくに限る。まずは1体目の敵を倒し、封印されたステージを解放することが第一歩なのだ。

 

ということで、実家に帰省している状況で、家に仕事を持ち込みたくないため、外を散歩しながら電話をしてみた。

 

そして帰ってきて今に至るのだが、想定したネガティブな未来は一つとして起きず、どこか拍子抜けしてしまった。バイアスのいい加減さが、よくわかった。

 

上司からの八つ当たりも来ず、ご家庭から押し売りだと怒られもせず。僕の中の猜疑心は、もはや病なのではなかろうか。しかしこれがバイアスの力なのだ。

 

今はどこか”すっきり”した感覚が強く、次に打つべき手やタスクも見えてきて、色んな不安がどこかへ消えてしまったように思う。なんというか、健全だ。

 

しかし前後のメンタルをきちんと言葉に残しておくことは、今までぬかっていたが、実はかなり有益な時間だと思う。後から検証と反省ができるからだ。

 

不安に囚われているときも、行動を起こしてすっきりしているときも、その時々の気分に支配されており、客観的な観察が思い切り阻害されてしまう。

 

時間を空けて、冷静に分析してみる。未来の自分に宿題を出すイメージで、なるべく言葉にし尽しながら、記事を書いた所存である。

 

ということで原稿用紙約10枚分に及ぶ内省の記録、僕としてはとても有意義であった。ぜひ皆様も、書いたり喋ったり、内面の分析を深めてみてほしい。

 

では今日はこの辺で。

 

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