精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

「不安は自由のめまいだ」という言葉が、最近やっと腑に落ちてきた。

体系的な学習をしているわけではないが、断片断片で仏教、哲学者、心理学者の思想や解釈を読むことが増えている。ここ最近、それらに強く興味が湧いているためだ。

 

その中でも、出会ったのは去年の秋口なのだが、なかなか腑に落とせなかった言葉がある。それは、キルケゴールの、「不安は自由のめまいだ」というものである。

セーレン・キェルケゴール - Wikipedia


「なんとなくわかるような気がするが、腹落ち感はないな~」というくらいの感想しか抱けず、かといって理解しようと努力するのも面倒で、放置していた言葉だ。

 

しかし今は、その言わんとすることが、おぼろげながら見えてきたように感じている。そして、めまいを感じていなかった自分は少し甘かったなと、認識するに至っている。

 

自由であることと不安であることは、本来裏表の関係なのではなかろうか。不安とは自由を意味し、そして自由とは必然的に不安を誘発するものなのではないか。

 

今日はそういう、少し小難しい話を起点として、話を始めてみたいと思う。

 

 

「なんでもできる」という言葉が煙に巻いているモノ。


「なんでもできる」と聞くと、自分の行く先には無限の可能性が広がっていて、どれも自分の裁量で選び取ることができるという、何かワクワクさせるような響きがある。

 

だから人は自由を求め、束縛を嫌い、妥協を敗北と解釈するのではないかと、そんな風に思っている。僕もその1人なのだが。

 

しかし、自由とは非常に無責任な言葉である。「好きにしていいけど、必ず何それのフィードバックはあるよ」という部分が、完全に煙に巻かれているからだ。

 

例えば、道路に飛び出すのも自由だが、恐らく車に撥ねられて最悪人生が終わるというフィードバックが帰ってくる。

 

ただ、道路に飛び出した結果、それを咎めてくれた人とお付き合いして結婚するみたいな可能性もそこに生じてくるともいえる。(まぁ夢物語極まる話だが)

 

こんな風に、自由とは、つまりいかなる行動や選択もできるということだが、それはつまり最悪の未来を引き寄せるという可能性も内包している

 

自分の決断で、あらゆる未来を引き寄せうる状態。それはつまり、”選択の結果がどうなるかなど、絶対にわからない”ということである。

 

そしてわからないものに強く意識が向いているとき、人は不安という感情を抱くと言われている。となれば、自由と不安は=で結んでもいいような気さえしてくるわけで。

 

選択一つで、無限の可能性が開かれる。その中には当然、良いものも悪いものも含まれる。しかし、わからない。とてつもなく巨大にして、あまりにも未知なる対象。

 

そういえば、あまりにも巨大な目標や相手に遭遇したとき、よく「眩暈がする」とか「目がくらむ」とか「気が遠くなる」といった描写が、小説だと使われる。

 

ここまで考えていくと、途端に何かが繋がってきた。「不安は自由のめまいだ」という言葉の言わんとすることが、少しずつ腑に落ちてきた

 

好きにしていいとか、お前に任せると言われた際に、認められたと喜ぶのはあまりにも無邪気なのである。むしろ、不安を覚える方が自然なのだ。

 

もっと言えば、のびのびやってほしいと願って、好きにしていいよという指示を出すと、その人は不安を感じると想定した方がいい、ともいえる。

 

では、それが分かったからどうすればいいのかという話だが、そのヒントは今までに読んできた組織論やリーダーシップに関する本の中で、何度も触れられている。

 

一言で言えば、不安によるめまいを軽減するには、自由とされる部分を減らしていけばいい。それが今、僕が折に触れて試行錯誤していかねばならない要素だと言える。

 

一度作れば、「今、ここ」の目標しか見なくてもいい。

 

最近「竹中式マトリクス勉強法」という本を再読して感じたのだが、今思えば資格試験や受験の勉強は、まだまだ取っつきやすい方のモノだよなと思う。

 

理由は、試験日程や試験範囲といった定められたもの、いわば”天井”があり、しかも「落ちた・受かった」といった結果がハッキリと示されるからである。

 

一方、例えば教養としての哲学とか、リーダーシップ論には、何をいつまでにやれば合格するといった明確なラインが全く存在しない。下手すれば一生物の学習となる。

 

つまりゴールも途中経過も【自由】なのだが、意外とそれを放置すると、一歩目すら踏み出せず、三日坊主にもならず、頓挫する人は多い。

 

そういう際に有効とされていたのが、一旦ゴールとなるラインを自分で設定し、それを日割りにして、日々その目標の達成に集中して取り組む、というものである。

 

実際竹中平蔵氏も、ある時本を出版したいと考えて、「一冊本を仕上げる」という目標を立てた際、毎日原稿用紙3枚分を書けば、1年で本ができると分解したそうだ。

 

そして毎日毎日、その3枚を書き上げることに集中する。あと何枚で本が仕上がるとか、現時点で何枚書いたとか、そういうことは考えないのがコツなのだ。

 

視野を広くすること、過去や未来を見つめることは、いわば見なくてもいい情報や可能性が見えてしまい、自由が生まれ、結果不安がそこから立ち込めてくるものだ。

 

長期の目標はもちろん大切で、僕自身それを否定する気は無いのだが、常日頃からそれを見続けることは、少なくとも僕には合わないと感じている。

 

自分事としても、この辺りを試行錯誤するのは結構大変なのだが、それをさらにチームに、他者に波及させるとなれば、どうすればいいのか

 

不安である。不安だが、それはつまり自由であるということ。選択肢をどうとでも取れることは、ある意味僕がケツを拭けるということで、実は望んでいた未来である。

 

「不安は自由のめまいだ。」色んな解釈を通じて咀嚼するうちに、段々とこれが好きな言葉になってきている。

 

自由とはいわば自立の前提条件である。そこにたどり着くまでに結構掛かったが、僕はやっと自立の第一歩を踏み出せたということなのだろうか。

 

ということで今日はこの辺で。

 

参考サイト一覧。

philo1985.hatenablog.com

 

diamond.jp

 

www.nhk.or.jp

 

 

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