入社して2~3年程度、僕は生徒制御についてすごく頭を抱えていた。それを機に、独学ではあるが、荒れた学校を立て直した例など、とにかく学習しまくった記憶がある。
授業時の立ち位置、生徒への声掛け、ストレスが過度にならない考え方。そういった具体的な施策を大量に仕入れて、実践し、都度自分の中で改善を繰り返す。
そういう期間を経て、しかもこの仕事を続けて7年経った今でさえも、実は指導に難儀する生徒はまだまだ多い。(当然ではあるが)
勉強に意地でも向き合わない、向き合うものの学習障害を疑うレベルで定着しない、そもそも学校の人間関係に悩みを抱きまくっている、等々。
そういうわけで、教育アドバイスについて時折ブラウジングすることは、もはや日課になっているのだが、最近その向き合い方に、自分の中で変化が起きている。
それは、具体的施策だけなぞってもあまり意味がない、という前提が己の内にできたということだ。まぁ、このことに気が付いたのは最近の話なのだが。
ということで今日は、「先生の個性によって変わるから、具体的な指導法とか意味ないよ」という助言に超苛立っていた頃の自分に向けるつもりで、記事を書く。
新任とか生徒との関係とかに悩める人にとって、ヒントになるのではと思う。では以下、本題である。
- 【教育】とは感情労働である。
- 「他人の指導法を聞いても、あなたに合うかどうかはわからないから意味がない」という助言の真意。
- 全ての始まりは、先生の”矜持”を読み込むことから。
- 終わりに:「荒れない授業」を狙って作れる方法は絶対に知っておく。でもそこから先は個々人が追求すべきことだよね、と。
【教育】とは感情労働である。
目を覚ますきっかけになったのは、↑のnoteである。そこに書かれている校長先生の接し方に、すごく考えさせられるものがあったのだ。
不登校の子供に心を開かせることは、親でも難儀する。しかし熟練した校長先生のもとに連れていくと、すらすらと口を開き始める。そんな話が書かれていた。
やっていることは【傾聴】といわれるものだが、他の人に口を開かない子どもが数分で喋り始めるというレベルは、一言で書くのが憚られるほど圧倒的に偉大な能力である。
―この際考えたのは、「なんとすごい技を持っているんだ!」という表面的な賛辞ではなく、「何を信念として持っていれば、この域に辿り着けるのか」という問いだ。
表面上の技だけなら、例えば頑張って漫画を模写すればそれを真似することはできるように、まがい物とはいえ盗むことは正直不可能ではない。
そういうフェーズが大切な時期もあるのだが、それに終始してしまうと、羽生善治氏の言うところのメッキをただただ厚塗りしていくだけになのではないか。
信念も哲学もない状態のまま、具体的な技ばかり鍛えたところで、それは耳さわりのいい生徒の”操作”になっているのではないかと、すごく恥ずかしくなった。
そういう大人の欺瞞を、子供は敏感に察知する。僕は空っぽであることを、彼ら彼女らに、見抜かれていたのではないか。頭を殴られたかのような衝撃を覚えている。
塾では、勉強はしなければいけないことだ。させることにコミットしているから、僕らは月謝を貰っているのだ。つまり、勉強しようとしないことは悪なのだ。
―と本気で信じていた。今もそう思っている部分は、必要悪として少しある。だが、こういう性根の人間に、僕は勉強を習いたくない。そもそも、近くにいたくもない。
泥臭く抽象的な話だが、僕に欠けているものは、つまり生徒への【愛】だ。もちろん性愛なんて俗的なモノではなく、信頼と喜びの混ざった方の【愛】である。
このラポールを形成しないままでは、何を語ろうと無駄なのだ。そこをすっ飛ばして教育的なスキルに頼ろうとは、なんと愚かなことだろうか。
生徒に、期待ではなく信頼を置く。こうあるべきというこちらの像を押し付けない。内的な声を引き出して、それを助けていくような関係性。放置せず、見守る。
そのために必要なのは、信念や哲学という、講師としての僕の「芯」である。その「芯」を持った人が行うからこそ、傾聴した生徒は心を開くのだ。
―具体的な生徒制御の術を僕は無駄だというつもりはない。ただ、それは手段であり、それを目的として徹底するのはどこかズレている。
”なんのために”僕は授業を上手になりたいのか。引退まであと3年と勝手に決めているが、改めて自問するべき大きな問いである。
「他人の指導法を聞いても、あなたに合うかどうかはわからないから意味がない」という助言の真意。
入社してすぐ、集団授業のノウハウなど持たない僕は、生徒との接し方、集団の統率のさせ方について悩み、よく先輩に相談をしていたものだ。
だが大抵は、「俺は俺、お前はお前なんだから、聞いたところで意味は無い」と返されていた。僕はそれを無下に扱われたと解釈し、裏でかなり苛立っていた記憶がある。
今もその返しは流石に乱暴すぎると思っているが、だが70%くらいはその通りだなと納得している部分もある。
その理由は、「関係性(あるいは分人)」という観点で考えると、しっくりくる。以下、少し駆け足になるが、説明してみよう。
「幸せになる勇気」に書いてあったことで、最近ようやっと意図が理解できたフレーズに、こんなのがある。
うろ覚えだが、「生徒はあなたとの関係性において、あなたに助けを求めている」といった感じのものだったと記憶している。
最初に読んだときは、「いやいや、手に負えない生徒は、誰に対しても厄介で手に負えないもんですわ」と斜に構える気持ちがあったが、今は「そうだな」と納得している。
その契機は、分人という考えを知ったことが大きい。この観点を持ったうえで、先のセリフを頭に浮かべると、そこから汲み取れるメッセージが変化したのだ。
「問題行動を起こす生徒がいたとして、やはりそれは、あなたに対して表に出しているものが、問題行動を起こす分人に過ぎない」というものである。
そして鍵となるのが、「誰に対しても」という部分である。この部分は、本当に「誰に対しても」なのだろうか。そう自問したとき、気付くことがあった。
問題行動を起こす(とされる)分人が、僕という個人に対してだけではなく、教師含む大人という存在全てに対して発露するものだとしたら、どうか。
生徒のいわば社会的な分人の特性に、集団行動における難があったとして、それを生徒全部の否定にまで適応するのはやはり暴論である。
―だからこそ、僕がまずやるべきことは、目先の行動はどうあれ、その社会的な分人を潜り抜けた先、生徒とサシの分人を作っていくことではなかろうか。
そのために必要なのは、相互理解、歩み寄りである。そしてその始まりとして、相手の話を徹底して聞く。ただ、聞く。胸の内を聞いて、言葉にしていく。
「まずは生徒と関係を築くこと」という助言や教えが、ここまで考えて、かつ経験を重ねた結果、ようやく腑に落ちた。
社会的な分人を用いてお互いに接している限り、大人に対して敵意を抱いていたり、勉強に対して嫌悪感を抱いていたりする生徒と歩み寄ることは絶対にできないからだ。
正直20代半ばの頃は、いわゆる「ヤンチャボウズ」に対して、経験のある教師が必ず真っ先にやることが【傾聴】であることを不思議に思う気持ちもあった。
私企業である塾と、そこで塾講師は、そんな傾聴なんて悠長な時間など無いのだから、さっさと結果を出さねば辞められるという反発があったからだ。
しかしそこは、急がば回れ。というより、それこそが最速の方法なのだろう。今は本当に身に染みてわかる。あの頃の自分へ、噛んで含めるように教えてあげたい。
全ての始まりは、先生の”矜持”を読み込むことから。
こういう経緯もあり、最近は対症療法的な勉強はしなくなっている。つまり、「生徒に話を聞かせるためにはこうすればいいよ!」というHowToに興味が無くなったのだ。
もうそこを学ぶ段階は終わった。今はもっと、内面の部分を僕は学びたい。そう思って最近は、校長先生の挨拶とか、教師へのインタビュー、ブログをよく読んでいる。
つまり、生徒と相互理解に至っている人たちの考え方、果ては【愛】の正体を知りたいと、今僕は強く思っている。
「そんなもん、お前が考えろ」という話だが、どこまで言っても言葉は借り物であるからこそ、僕の想いを言語化するためにも、人の矜持に触れることは大事なのだ。
資料はやはり少ないが、それでも大事な教えはそこに刻まれている。もっとそこの感度を高めていくことも、今の僕に必要な宿題だと思えてならない。
終わりに:「荒れない授業」を狙って作れる方法は絶対に知っておく。でもそこから先は個々人が追求すべきことだよね、と。
繰り返しになるが、生徒との関係性を築けるかどうかは個々人にかなり依存するのに、荒れさせる授業の共通点は不気味なほど再現性が高い。
まずはここをしっかりと共有・研修することで、どの先生も志さえあれば6~70点出来の授業を安定して実施することはできると、僕は感じている。
しかしそこから先となれば、社会的な分人同士のやり取りで行き着くことなど到底不可能だ。気付くのがずいぶん遅くなったが、腑に落ちたのが今なので仕方がない。
怒声は要らない。肉体的な強さも要らない。高圧的な態度も要らない。要るのは愛。深い。深いが、まだまだなんにも理解できていないという気もしている。
先は長いが、長いからこそ面白いよねという天邪鬼な自分もいる。それに感謝しながら、学習を続けていこうっと。
では今日はこの辺で。