精神年齢9歳講師のブログ

校舎での出来事、読んだ本、つまりインプットを全てアウトプットに変える実験場、的な。

「合格祈願」をする本当の目的が、ちょっとわかったかも。

こないだ、塾生の合格祈願ということで、会社の有志と一緒にとある天満宮へ行ってきた。まぁ、いわゆる神頼みだ。

 

しかし、正直僕は、神頼みにあまり興味がない。受験生だった頃も、「このお参りの時間、勉強してたいな・・」というバチ当たりなことを考えていたほどだ。

 

今回もどちらかと言えば、一つの気分転換や、生徒と話すネタという風に、それ自体とは別の目的をもって、同行したという具合である。

 

ただ最近、本当に偶然読んだ本の一節がきっかけとなって、「神頼み」の本当の意味や狙いについて、ちょっと気付いた点がある。

 

それを踏まえれば、なるほど確かに、人智を超越した存在に命運を託すような考えも、悪くないように思えてきた。

 

今日はそういう、謎のお話である。

 

 

人事とは、天命に一度報告することも含む気がする。

 

そのフレーズには、この本を再読している際に出会った。確か、なぜ人は変われないのかという問いは、原始人の観点から考えるとしっくりくる、みたいな項だったと思う。

前後の文脈をガン無視して書くが、自分の中に引っ掛かったのは、こんな感じの内容だ。

 

「太古の時代、人類は自分たちの力が及びもしないことについては、神に祈りを捧げることで、その不安を鎮めてきた

 

・・・なぜここが引っ掛かったかというと、そういえば不安について思索を深めたキルケゴールも、同じようなことを言っていると気付いたからだ。

 

宗教の違いだと思うが、確固たる存在を信じ、拠り所とすることで、不安は消える・・といった話だったと思う。

 

人智を超えた、絶対的な存在。それを頼りにすることは、弱さの証明などではなく、最後の粘り強さであったり、心の平穏を生んだりするために、必須なのではないか

 

むしろこういう「祈り」こそ、不安という「わからないことへの恐怖」を軽減し、迷いを消して行動に専念させる、一つの儀式なのではとさえ、僕は考えている。

 

学習を重ねても、傾向が変わったら、平均点が上がったら、本番しくじったら・・といった風に、不安は尽きない。そこを押し殺して集中するのは、かなり難しい。

 

そこはコントロール不可能な部分だ。この不安の御し方は、"わからなく難しい"からこそ、人類は数千年も悩んでいるテーマなのだと言える。

 

だからどうするかというと、同じく、人類に及びもしない存在に委ねるのだ。こぞって学問の神様に祈願するように。

 

目を閉じて祈りを捧げ、絵馬に誓いの言葉を書き記す。そういう手順を経ていくと、不思議と心は鎮まるものだ。安心して、また自分にできることを重ねられる。

 

「人事を尽くして天命を待つ」ことには、やることをやったらどんと構えるだけじゃなく、天命を与える側への報告や祈願まで含まれているような気がしてならない。

 

自分の手に負えない漠然とした不安に打ち克つため、同じく超常的な存在を頼りにする。こう考えれば、合格祈願もれっきとした、目標達成に必要な努力の1つと言える。

 

神頼みとかどうなん?と斜に構える考え方もあるだろうが、結果自分にとってメリットがあるなら、どんどん取り入れるべきだと思う。

 

もちろん人事も尽くしていないのに神頼みをするのはただの愚か者だが、人事を尽くすための最後の粘りが必要な人こそ、こういう儀式をするのはオススメだと言える。

 

ということで少し短編にはなったけど、今日はこの辺で。

 

 

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