「終わりよければすべてよし」という言葉がある。簡単に言えば、最後さえイイ感じにフィナーレを迎えられれば、全てが良い思い出にひっくり返ることである。
この言葉の言わんとすることは、人生の節々で感じられる。例えば受験に合格さえしてしまえば、その途中の苦しい時間全てがかけがえのない思い出になるようなものだ。
だが最近は、この「終わりよければすべてよし」という考え方は、ある意味バイアスの一種であり、未来の失敗の種まきに等しい側面もあるなと、ちょっと危惧している。
なぜかというと、適切な検証と反省を阻害してしまうからだ。今日はそういうお話である。
終わりさえよければ途中も全てよかったという”錯覚”。
この「終わりよければすべてよし」という感想が湧いているとき、頭の中では何が起きているのか。その端緒が知りたくて、色々調べてみた。
すると、説明の一助になりそうなバイアスの存在を発見した。それは【ピーク・エンドの法則】というものだ。
これは説明が少し難しいのだが、ある一連の流れがあったとき、感情的なピークと、終わりの感想だけで、全体の印象が決まるというものである。
例えば花火大会の盛り上がりが中盤と終盤に来るのも、これに則っているらしい。途中で盛り上がり、終わりも盛り上がれば、花火大会”全てが”楽しい時間となる。
しかしよく考えれば、そういう目玉の花火が飛ぶのは、その一瞬×2だけである。そのインパクトだけで、残り全ての時間丸ごと最高の時間になるのは、すごく不思議だ。
しかもこれは、良い話だけでもない。途中に感情的な良いピークがあっても、終わり際に最悪なできごとがあったら、その時間”全て”が最悪なそれに塗り替わるそうだ。
極論で言えば、最高のデートを過ごせたとしても、帰り際に犬のクソを踏んでしまったら、その彼(女)含めて最悪な記憶になる。思い出は何とデリケートなものだろう。
・・ただこれの厄介なところは、エンドが良ければそれまで全てを肯定しがちである、まさにこの特性そのものである。
本当に露骨な例え話なのだが、ある上司によって長期間パワハラ紛いの何かを受け続けていた折、その上司が転勤で組織を去ることになったケースを考えてみたい。
そんなその人が、今までの態度をコロッと変えて、送別会で号泣しながら皆への感謝を述べ、拍手喝さい、感動の中終わったとしよう。
この場合恐らく、【ピーク・エンドの法則】が発動し、その上司”全て”を肯定する思考になる。つまり、あの人のマネジメントは正解で、パワハラは愛になるのだ。
だからこそ、それをまた自分が部下にやってしまう可能性も、そこに芽吹く。なぜかというと、”自分が肯定した”上司の真似をするのは、ある意味当然のことだからだ。
本能に根差した負の連鎖を断つのは、こんな風に非常に難しい。「区切りがついたら丁寧に反省・検証しよう」と言うのは簡単だが、恐らく無意識下で美化される。
ここを意識して打ち破るには、やはりそれ相応の施策が必要になる。続いては、その具体的手段について、考えていきたい。
それを打ち破るための施策とは?
一度美化されてしまったら、その思い出を客観的に振り返ることは極めて難しい。意志の力とかそういうのではなく、具体的なツールを用いた方が正解だろう。
ということで自分自身でも試してみて、そこそここのバイアスに対抗できたと思う方法を、以下パパっと列挙する。
①適宜記録を取る。
やはり最強のツールはこれだ。色々と状況が進行中の時点で、記録を残しておくこと。これが一番、あとになって冷静な検証を可能にするタイムマシンだと思う。
僕で言えばこのブログの存在がそうだ。思い出が美化されているような感じがしたら、ここに書き殴った過去記事を、時たま読むようにしている。
すると、このときはこんな目に遭っていたということを思い出せるし、「これは容認していいことか?」というのを自問できるようにもなる。
注意点としては、過去は過去で、また別のバイアスによって歪められている可能性が捨てきれないということがある。だから鵜呑みにするのもまた、危険だったりする。
とはいえ、単に主観的に記憶を想起するよりかは圧倒的にドライに分析できるので、習慣として残しておくのは悪くないと思う。
②ネガティブ前提の検証を行う。
記録が残っていない、あるいは残すのが面倒なときはどうするか。となれば、意識的に過去を振り返る際のメガネをかけかえることをオススメする。
つまり、「この頃の課題点は何か?それを修正するにはどうすればいいか?」というのを前提に、検証を始めるのだ。
「悪いところは必ずある」という観点があるだけで、過去を美化するバイアスはかなり弱まる。弱まってくれれば、幾分マシに検証もできるようになる。
注意点としては、検証したい対象が終わった直後だと、ぶっちゃけ「ピーク・エンドの法則」の力が勝るため、あまり意味が無いというのが挙げられる。
数日程度時間を置いてから、この方法は試してみてほしい。
終わりに。
こんなことを書き殴ると、器が小さく心が狭いヤツにしか思われない気がするが、正直言ってこの鬱屈した気持ちは、今後の自分にとって大切な、大事な原動力である。
俺ならもっと上手くやれるという反骨心。これを、「ま、終わりよければすべてよし」という軽い気持ちで捨てるのは、むしろ過去の自分に失礼である。
臥薪嘗胆ではないが、ほろ苦い記憶を美化しない工夫を、常日頃から重ねたいと思う。もちろん、メンタルを病まない範囲で、だが。
では今日はこの辺で。