相も変わらず、毎日コツコツと本を読む。晩酌にまたハマった関係で、一時期よりも読書量は減ってしまったが、家の本棚はもう飽和している状態のままだ。
いつぞや書いたが、10年くらい前は、本を読むことで【答え】を知りたくて、様々なそれを手に取っていた。だから当時買ったものは、ビジネス書が大半である。
もちろん【答え】と思われることはたくさん書いてあったし、実際それがそのまま機能して、悩みが減った例もあるのだが、むしろそれは圧倒的少数派だった。
最初は「じゃあ他の答えを探そう」という風に、幸せの青い鳥を探すかの如く本を手に取りまくったが、10年以上経ってもそうなので、何かが変だと最近気づいた。
そして今のところは、ある暫定解に行きついている。それが表題通りの、「読書は学びの到達点ではなく、むしろ学びの起点である。」というものだ。
今日はそんなお話を書いてみる。
無知の知。
自分には知らない世界があることを自覚するのは、本当に難しい。単に手触り感が無いのもそうだが、自分はバカだと認める気もして、抵抗があるためでもある。
しかし一冊の本を手に取ってみれば、知らない世界、知らない考え方、知らない語句のオンパレードである。自分が知らないことを、たくさん知ることができるのだ。
正直、何かしらの答えを知りたくて本を手に取ったはずが、読む前より「なぜ?」が増えていることなどザラだ。ぐうちゃんがいう「不思議アタマ」そのものである。
最初はそれに苛立つ気持ちもあったが、今はキレイに真逆で、むしろ歓迎する気持ちの方が強い。そこを起点に、また新しい知識を知ることができるためだ。
「フェルマーの最終定理」という名作を読んだことがきっかけで、数学史そのものに興味が湧き、気付けば「素数の音楽」に手を伸ばしたのも、この一例だと思う。
こうやって頭の中の知識が次々と、ネットワーク上に広がっていく感覚。本当の読書の楽しさと有用性は、ここにあるような気がしてならない。
20代前半は偶発的にそれが起きては快感を覚えた記憶があるが、今はそれを狙って起こすために、色々工夫して読書をしているところではある。
ということで続いては、読書を学びの起点として捉えたあとの構え方を、まだまだ試行錯誤の段階だが、言葉にしておく。
立体的にして厚みを増す。
最近、「サイコパス性」にまた興味が湧いて、再読を重ねている。これを例として、僕なりの取り組みを紹介してみる。
まず、「そのもの」を説いた本を手に取って、それまでに読んだときは見逃した情報や考え方が無いか、改めて確認することが多い。例えば以下の本がオススメだ。
そしてこれを読みながら、ここからは心がけの話になるのだが、「似たことを言っている別の本は無いか?」というのを頭の片隅に置いておく。
1つの考え方を、様々な観点で眺めて、深める。抽象的だが、「膨大な思考を立体的にして厚みを増す作業」の始まりについて、僕はこれではないかと捉えている。
ちなみに今回は、以下の本に似たことが書いてあったような気がすると思いついた。だからさっきの本が終わったら、こちらを読んでいく予定である。
―さらに言えば、サイコパス的な思考をしているときの脳の働きは、仏教僧のそれに似ているという説もあった。(断じて、〇人衝動的なことではない)
感情を切り離し、合理的に考えて、今の時間軸に集中する。となれば、仏教の考え方を学ぶことで、さらにサイコパス性の理解が進むのでは、と仮説が立つ。
たまに仏教の教えを調べて書き殴っているのも、実はそういう裏話があったりする。結果、僕の脳内は今、イイ感じにカオスであり、学びが進んでいる手応えがある。
・・他にも、やり方はある。例えば著者のインタビューやブログなどを探して読んでみるのもいい。さらにわかりやすく言語化されていることもあるからだ。
一度読んだ本の知識に、「知らないこと」を起点として、あらゆる知識を結び付けていく感覚。鉄球に棒磁石を延々とくっつけていき、別の鉄球に繋げるイメージだ。
すると時たま、突拍子もないところと急に繋がることもある。そうなれば、一気に理解と学習と体得が進む。この感覚は、一度味わうと病みつきになるくらい爽快だ。
学びてときにこれを習う。本当にこれは面白いのである。
では今日はこの辺で。