精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

読書は学びの到達点ではなく、むしろ学びの起点である。

相も変わらず、毎日コツコツと本を読む。晩酌にまたハマった関係で、一時期よりも読書量は減ってしまったが、家の本棚はもう飽和している状態のままだ。

 

いつぞや書いたが、10年くらい前は、本を読むことで【答え】を知りたくて、様々なそれを手に取っていた。だから当時買ったものは、ビジネス書が大半である。

 

もちろん【答え】と思われることはたくさん書いてあったし、実際それがそのまま機能して、悩みが減った例もあるのだが、むしろそれは圧倒的少数派だった。

 

最初は「じゃあ他の答えを探そう」という風に、幸せの青い鳥を探すかの如く本を手に取りまくったが、10年以上経ってもそうなので、何かが変だと最近気づいた

 

そして今のところは、ある暫定解に行きついている。それが表題通りの、「読書は学びの到達点ではなく、むしろ学びの起点である。」というものだ。

 

今日はそんなお話を書いてみる。

 

 

無知の知

 

自分には知らない世界があることを自覚するのは、本当に難しい。単に手触り感が無いのもそうだが、自分はバカだと認める気もして、抵抗があるためでもある。

 

しかし一冊の本を手に取ってみれば、知らない世界、知らない考え方、知らない語句のオンパレードである。自分が知らないことを、たくさん知ることができるのだ。

 

正直、何かしらの答えを知りたくて本を手に取ったはずが、読む前より「なぜ?」が増えていることなどザラだ。ぐうちゃんがいう「不思議アタマ」そのものである。

 

最初はそれに苛立つ気持ちもあったが、今はキレイに真逆で、むしろ歓迎する気持ちの方が強いそこを起点に、また新しい知識を知ることができるためだ。

 

フェルマーの最終定理」という名作を読んだことがきっかけで、数学史そのものに興味が湧き、気付けば「素数の音楽」に手を伸ばしたのも、この一例だと思う。

 

こうやって頭の中の知識が次々と、ネットワーク上に広がっていく感覚。本当の読書の楽しさと有用性は、ここにあるような気がしてならない。

 

20代前半は偶発的にそれが起きては快感を覚えた記憶があるが、今はそれを狙って起こすために、色々工夫して読書をしているところではある。

 

ということで続いては、読書を学びの起点として捉えたあとの構え方を、まだまだ試行錯誤の段階だが、言葉にしておく。

 

立体的にして厚みを増す。

 

最近、サイコパス性」にまた興味が湧いて、再読を重ねている。これを例として、僕なりの取り組みを紹介してみる。

 

まず、「そのもの」を説いた本を手に取って、それまでに読んだときは見逃した情報や考え方が無いか、改めて確認することが多い。例えば以下の本がオススメだ。

そしてこれを読みながら、ここからは心がけの話になるのだが、「似たことを言っている別の本は無いか?」というのを頭の片隅に置いておく

 

1つの考え方を、様々な観点で眺めて、深める。抽象的だが、「膨大な思考を立体的にして厚みを増す作業」の始まりについて、僕はこれではないかと捉えている。

 

ちなみに今回は、以下の本に似たことが書いてあったような気がすると思いついた。だからさっきの本が終わったら、こちらを読んでいく予定である。

―さらに言えば、サイコパス的な思考をしているときの脳の働きは、仏教僧のそれに似ているという説もあった。(断じて、〇人衝動的なことではない)

 

感情を切り離し、合理的に考えて、今の時間軸に集中する。となれば、仏教の考え方を学ぶことで、さらにサイコパス性の理解が進むのでは、と仮説が立つ

 

たまに仏教の教えを調べて書き殴っているのも、実はそういう裏話があったりする。結果、僕の脳内は今、イイ感じにカオスであり、学びが進んでいる手応えがある。

 

・・他にも、やり方はある。例えば著者のインタビューやブログなどを探して読んでみるのもいいさらにわかりやすく言語化されていることもあるからだ。

 

一度読んだ本の知識に、「知らないこと」を起点として、あらゆる知識を結び付けていく感覚。鉄球に棒磁石を延々とくっつけていき、別の鉄球に繋げるイメージだ。

 

すると時たま、突拍子もないところと急に繋がることもある。そうなれば、一気に理解と学習と体得が進む。この感覚は、一度味わうと病みつきになるくらい爽快だ。

 

学びてときにこれを習う。本当にこれは面白いのである。

 

では今日はこの辺で。

 

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