精神年齢9歳講師のブログ

校舎での出来事、読んだ本、つまりインプットを全てアウトプットに変える実験場、的な。

「不安」や「面倒」という感情が生じる最たる原因がわかった、かも。

「不安」という感情について、我ながら結構な量の勉強を重ねてきたと思う。しかし数年かけて学びを深めても、やはりこの感情は、本当に掴みどころがない

 

「不安」とは、わからないものに注意が向いている状態。そこまでは何とか腑に落とせたが、それが具体的にはどういうことか、上手く言葉にできない状況が続いていた。


しかし最近、ようやくこの停滞について、突破口みたいなものが見えてきた手応えがある。そのきっかけは、やはりたまたま、本の一節との出会いである。

 

今日はその発見を、取り急ぎ言葉にしておく。

 

 

「不安」や「面倒」が煙に巻いている”わからないもの”の正体。

 

最近こればっかり紹介している気がするが、この本を再読していると、以前は見落としていた発見が大量にあって、胸焼けするほどの充足感を覚える

特に最近凄く有意義だったのが、合理的な思考を促す「自問」のフレーズだ。本当にシンプルなのだが、これがとても強力なので、一例を紹介する。

 

例えば何かの仕事や作業に打ち込まないといけない場面や、あるいは異性に声をかけるなどで勇気が必要になる場面で、こう自問してみるといい。

 

「今抱いている感情が無かったら、俺は何をする?」

 

―すると不思議なことに、感情から意識を飛ばして、行為・行動の方にフォーカスすることができるのだ。

 

「あの子に話しかけたいけど、恥ずかしい」→「その恥という感情が無かったら、俺は何をする?」という風に。すると大抵、少なくとも思考が前に進むのだ。

 

ちなみに僕の場合は、オフラインにおいて直で話しかけるとまずキモがられるか不審がられるので、きっかけがない限りは話さないということを徹底しているのだが。

 

とはいえ、感情による行動の抑制は思った以上に強力であり、本当にそこから先へ思考を一切動かなくさせる程なのだ。

 

「どうしよう」と考え続ける限り、永遠に答えが出ない理由は、ここに潜んでいるとさえ感じている。考えているようで、ただ壁の前にうずくまっているも同然だ。

 

そしてこの自問を用いて感情を引き剥がしてみると、自分が不安や面倒と感じる根本原因の仮説が、そこに隠れていた

 

それは、対象そのものへの未知ではなく、対象についてどんな手段が使えるかという部分に関する未知だったのだ。

 

・・・全くわけがわからないので、項を変えて説明し直してみよう。

 

なにをしたらいいかわからない。


突然なんだという話だが、次年度の目標を立てろというお達しが来た。正直今感じていることは、「めんどくさい」というその一点である。

 

しかしそれだと、いつまでたっても行動が始まらないので、さっさとそれを引き剥がす。「めんどくさいという感情が無かったら、俺は何をする?」

 

―というところを考えていて、ふと気が付いた。「目標を立てるために、まず何をすればいいんだろう?」・・僕は、それをわかっていないのだ。

 

そのために必要なのは何か?目標を立てるためのツールはあるのか?妥当な数値はどの辺なのか?そもそも他の人はどんな風にこの数値を考えているのか?

 

「不安」や「面倒」が煙に巻いているものの正体は、どうやってその問題を解決するかという手段についての無知だったとすれば、僕の中で辻褄が色々と合う

 

・・余談だが、いわゆるサイコパス的な思考の持ち主は、目標を見据えると、次はそこまでの最短距離をすぐに考えるらしい。

 

その目線で考えると、合理的な人がすぐに行動を起こす理由が、きちんと考えるというステップと矛盾することなく、うまく説明ができそうな気がする。

 

「あれをしたい」→「でもよくわからない」→「だからまずやってみる」→「なるほど、こんな感じか」→「じゃあ次はこの手でいこう」→繰り返し

 

対象についてよくわからない状態で思考することがないだけだと考えたら、すごく腹落ち感がある。行動することの恐怖や不安が、一気に和らぐかのような感覚だ。

 

―ということで色々と思い付きで書いたので極めて散文的だが、たまにはいいかということでこのまま投下する。

 

では今日はこの辺で。

 

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