精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

歴史の”楽しみ方”が、最近急にわかってきた。

ここ1~2年は何故か指導から半分引退している状態だが、僕はもともと社会は中学からの得意科目である。(大学受験の際はセンター平均レベルに留まったのだが)

 

だからテストで問われる単元として、地理や歴史、公民を語ることはできるし、実際そういう知識を覚えるプロセスもすごく好きな時間である。

 

しかし、そういった社会、特に歴史の勉強を通じて、一体僕らは何を学べばいいのだろうか。実はそれについて、僕の中に確固たる答えがあったわけではなかった。

 

だから、「情報や教訓はストーリーという形で語られるから、それを物語として覚えたり思い出したりする練習」という、当たり障りのない理由を、生徒には伝えていた。

 

そんな折、たまたま読んだとある記事で、初めてそれについて、腹落ち感のある考え方を知ることができた。

 

今日は少しわくわくしながら、その考え方をシェアしたいと思う。

 

 

常識が常識じゃないことを学ぶ機会。

www.sady-editor.com

 

そのきっかけを得たのは、この記事だ。特に刺さった部分を乱暴にまとめると、こんな感じ。

 

歴史を学ぶことで、いわゆる常識というもの、当たり前というものは、時代ごとにまるで異なるということが分かる。

 

それによって、無意識下で自分が囚われている偏見に気付くことができ、改めてそれについて自問ができるようになる。

 

これについて、僕は痺れるような感覚さえ抱いた。この目線で歴史を学ぶと、またさらに面白い発見があるのかと、すごく胸が躍る感覚を持った。

 

特に自分がコンプレックスに思っていることについて、それ自体の歴史を考えると、また違った観点から俯瞰できることに気が付いた次第だ。

 

例えば、学歴を考えてみる。今の世も「学歴フィルター」という風に、一定以上の地位や仕事を得るためには、良い学校を出る必要がある風潮は、確かにある。

 

とはいえもっと苛烈だった時代の常識から考えたら、今のそれは相当軽いどころか、風前の灯になりかけているような印象を持ってしまう

 

江戸から明治にかけて厳然と存在した日本の身分制度であれば、生まれた時点で自分の運命はほぼ決していたという。学歴を得てひっくり返す機会すら、無い時代だ。

 

しかしそこから百年以上の月日が流れると、様相は変わった。中卒にも関わらず、大卒で大手企業に勤める人間の何倍も稼ぐ人が、そこかしこに登場するようになっている。

 

その観点から学歴というコンプレックスになりがちなものを見つめると、それに執着することは本当に何かの役に立つのか、少し訝しい気持ちさえ湧いてきてしまう

 

もちろん、自分に箔をつけるための一つの方法としては、”勉強が得意な人にとっては”コスパとしても優れているし、完全にそれが消え去ることもないだろう。

 

だが、それさえあれば安心という世の中は、まもなく終焉を迎えるとも見ている。少し例えが雑だが、明治辺りに姿を消した士族といった方々のその後を見てもわかる。

 

こんな風に、今の自分が常識と捉えているものを、歴史という過去のコンテクストで読み返すと、その意外な姿が立ち上ってくることがある。

 

そう考えれば、常識なんてのはやはり、18歳までに身に付けたただの偏見のコレクションに過ぎないのかもしれないと、一層納得できるような心持がする。

 

【歴史は繰り返す】、は本当か?


ところで、歴史を学ぶ理由を問うと、「歴史は大局観でみれば、同じことを何度も繰り返すから、未来を見通すために必要な学問だ」と言う人が多い。

 

僕はこの主張について、正直半信半疑だ。理由は、確かに似たような歴史的な局面だとしても、例えば存在するテクノロジー等が全く違うというのが挙げられる。

 

つまり、前提が違い過ぎるのだ。だからこそ、狭義の話にはなるが、歴史は繰り返さないと僕は感じている。

 

例えば今のコロナの騒動と、スペイン風邪の流行は似たようなものだという指摘があるが、だからといってスペイン風邪と同じ結末をコロナも辿ると思うのは早計だろう。

 

1918年前後には、SNSはおろか、インターネットも存在せず、マスメディアに当たるツールも、黎明期だった頃だ。だから騒動の実態は、当時と今ではまるで異なる。

 

では未来のために歴史を学ぶのは無意味なのかと言うと、それも一概にそうとは言い難い

 

ここはまだ自分なりの仮説なのだが、現在の事象について、「過去に似たことがあったなぁ」という知識があれば、とりあえず俯瞰して眺めることは可能だと捉えている。

 

SNSを見ていても思うのだが、目の前に起きていることに没入して、過激な言動を繰り返す人たちは、一般的に「振り回されている」と形容される。

 

振り回されている限り、冷静になることは難しいし、恣意的にコントロールされるリスクも跳ね上がる。

 

そういう没入状態から一歩引くための取っ掛かりとして過去の事例を眺めるのは、大変効果的だと感じている。

 

余談だが、今のコロナに伴う相互監視の強さについてみていると、関東大震災前後の日本の様子を連想する。

 

となればその当時の人たちの言葉や思想、そしてその後の流れを見れば、未来についてのぼんやりとした輪郭くらいはつかめるかもしれない。

 

そんなことを考えている。

 

では、今日はこの辺で。