たまに、社内で「研修」がある。ただ僕自身は、この「研修」という時間があまり好きではない。むしろ嫌いな方に入っている。
その理由は、「させられている感」が出ているからだ。自分に不足しているものはもう認識しているし、そのための努力も始めているという反発もあるのかもしれない。
義務教育における興味のない科目と同じで、別にこちらが求めていないことを一方的に植え付けられている感じがしてしまう。性根がお子様なだけなのだと思うが・・。
そのメカニズムはなんなのか。というか、そもそも「研修」って、なんなのか。それがわかれば、心理的抵抗は薄らぐかもしれない。
ということで今日は、そんなことを調べてみた備忘録である。
研修≠教育。
調べ始めてすぐ、面白い考察に出会った。それは、「研修」と「教育」の違いについて、である。
読んでみると、研修とは受信する側の目的に重きが置かれ、教育とは発信する側に何かしらの目的がある、という風に違いがあるらしい。
例えば学校の先生が生徒に二次関数の解き方を語るのは、大体の場合は教育にカテゴライズされると思う。
しかし、それこそ大手予備校講師の講演会に進んで参加する場合などは、多分研修にカテゴライズされるのではないか。
「教わる」というアクションについて、能動的か、受動的か。この観点からも、研修と教育は分けられる気がする。
となると、少し気付くことがある。僕が抵抗を感じるのは、研修という名を冠していながらも、その中身が研修ではなく、教育に近いのだ。
そしてなぜ僕はそれを教育と感じるのか、つまり、言葉が乱暴だが「押し付けられている」と感じるのか。そこを掘り下げると、また新たな気づきがあった。
続いてはそれについて書いてみよう。
「その研修がなぜ自分に必要なのか」が語られないとき。
僕が嫌いな研修には、ある共通点がある。それは、内容と目的が不明瞭というものだ。もっと言えば、何のためにそれが自分に要るのかわからない、となる。
そのギャップがあると、大抵は知識の押し付けになってしまい、僕みたいな器の小さい人間にとっては、あまり響かない時間と化してしまうのだ。
例えばこの間はよくわからない熱い話と、なぜここで出てくるかわからない外部講師の話を聞いて、打ち上げをして終わりというくだりがあった。
申し訳ないのだが、これについて、正直身になったことはほぼ無いと感じている。僕自身が課題に感じていることについて、1mmもかすっていなかったからだ。
この悲しいギャップはなぜ起きたのか。その答えも心当たりがある。研修をする側と受ける側で、内容や要望を始めとする諸情報の共有が不十分だったからだろう。
せめて、「こういう組織にしたいから、今の社員にこれを身に着けてほしい」という説明があると、ある程度の目的意識をもって研修に臨めたのでは、と思う。
「共有」の大切さを、また一つ学んだ瞬間であった。
終わりに:研修とはなんなのか?
ということで一旦、そもそも論に立ち返る。研修とは、つまり何なのか?ということで改めて、それを辞書で引いてみた。
1 [名](スル)職務上必要とされる知識や技能を高めるために、ある期間特別に勉強や実習をすること。また、そのために行われる講習。「入社後―を受ける」「海外―」
やはりこれまで書いてきた話と同様で、目的意識ありきでの学習のことを指すのではと、そういう気が、強くしてくる。
新人研修はなぜ新人教育と言わないのか少し考えたことがあるが、確かに目指す水準まで手っ取り早く上げねばならないという意味では、研修の方がしっくりくる。
こういうのを踏まえると、やはり研修というのは、内容と求めるものをオープンにしないと、双方のゴールがかみ合わず、させられている感が出るのではと思う。
次年度は自分が研修を預かる立場になるかはわからないが、その際はこの気づきをうまく活用したいと思う。
では今日はこの辺で。