大掃除が佳境である。今回はこれまでの経験と反省を活かし、1日当たりの作業時間を減らす代わりに、日数を増やすようにしているのだが、これが結構イイ。
1日で一気にやろうとすると、確実に見落としが発生する。終わった後になって、やりたいことに気づくことなどしょっちゅうだ。
そのせいで握力が回復しないまま日数が重なりそれがシンドイが、今までで一番完成度が高い大掃除になりそうな予感は、既にしている。
―ちなみに、今回僕は、「とにかく捨てる」ことを目標にしている。その目的は、大袈裟だが、そこから僕の世界観をクリエイトするためだ。
スクラップ無きビルドも、ビルド無きスクラップも、特に得られるものは無い。僕が言うのも変な話だが、掃除が苦手な人は、この辺を勘違いしていると思う。
今日はそんな話である。
スクラップ無きビルドはゴミ屋敷の始まり。
1~2回引っ越しをするまでは、僕も気付かなかった罠なのだが、何かを捨てずに物を買い集めると、単に邪魔になるばかりか、色んなことが無秩序になる。
いわば、「生活感」という言葉で煙に巻かれただけのカオスが、そこに広がることになるのだ。そしてそれは、インテリアどころか、思想でも同じことである。
例えば周りの人や自分を鼓舞しようとして、あらゆる人の名言をごちゃ混ぜにして集めて、それを語ったり吸収したりするのと同じだ。
論理的な言葉に納得を得た後に、感情的な後押しにやる気を滾らせる。そのせわしなさの先にあるのは、「つまりなんだ?」という胸焼けではなかろうか。
核となる何かを持たず、ただ色々なものを搔き集めて足し算する。その果てにあるのは、目先の環境と脳みそのゴミ屋敷化だと僕は考えている。
掃除の基本は整理整頓なのだが、整理とは簡単に言うと「捨てること」だ。捨てもせずに収納を考えたり拭き掃除をしたりするのは、ちょっとおかしいと思う。
ごちゃごちゃ考えず、まずは要らないと皮膚感覚で思うものを捨ててみる。これから全ては始まるのだと感じている。
ビルド無きスクラップは形骸化の始まり。
ではただひたすらに捨てればそれでいいのかというと、ミニマリストでない限り、やはりそれはそれで考え物だと思う。理由は、文字通り何も残らないからだ。
ヘンな言い方だが、一見周りから見れば非合理的で、無駄に見える施策が、その場所の個性やファンづくりに一役買ってくれているケースも多い。
「おまけしておいたよ!」という優しさや声掛け一つで心が満たされる人は、かなり多いのだ。それを無駄と断言して切り捨てることは、大変危険である。
自分の理念や価値観をしっかり内省し、それに合う何かを増やしながらも、それに合わない要素を減らす。
真の整理整頓の意味合いはこの辺にあるのではないかと、ここまで記事を書きながらそう思うに至っている。
終わりに:世界観を創ることは楽しい。
色眼鏡だと思うが、僕が尊敬する人は、個性的な人が多い。もっと言えば、言葉にできない部分も多いが、世界観がはっきりとしているという印象だ。
その人らしいものばかりが置かれていて、その人らしくないものが置かれていない。そういう家に遊びに行くと、心の底から羨ましさを覚えてしまう。
では僕らしさとは何なのか。それが上手く体現できているとは、どういう状況なのか。手触り感はまるで得られないけど、それを目指して明日も大掃除を頑張りたい。
ということで、少し短いけど、今日はこの辺で。