受験が近い。大学入試の前期はもう終わったが、高校受験はこれからである。必然的に、ナーバスな受験生に声をかける機会は増える。
過去、本当に色々と悩んだ。勝手に心中を察し、気の利いた一言を掛けようと頭をねじりあげながら、結局通り一遍のセリフを口にして、自己嫌悪、という風に。
受験生に対する胸の内を切実に書き尽くした塾長さんのブログやFacebookを読んでは胸を打たれ、そこまで思い入れないと失格だという烙印を自分に押そうともした。
―だが。そういう煩悶が完全に一周したのか、僕はもう、誰に対しても、同じ声掛けをするようになってしまった。
その声掛けとは、「健闘を祈る」。以上である。今年からではあるが、僕はもう、これしか言ってない。
今日はその理由を、脳内整理かねて書いてみる。
不安も信頼も、いくらでもできるのだから。
合否を決めるのは、当日の成果。それだけだ。そんなの当たり前と思われるかもしれないが、その意識が完全に抜けた悩みに、僕は以前囚われていた。
例えば志望校のボーダーを超えている生徒。こういうタイプについては、心配しなくていいだろうという安堵が先立つのだが、その後に大抵、不安の揺り戻しが来る。
「でもあいつ、プレッシャーに弱いからな・・」「直前のテストは調子が悪かったからな・・」「過去にこの点でも落ちたやつがいるからな・・」という風に。
そして不安がぐるぐる巡ったら、大抵はその苦しみから逃れ、なんとか楽観しようと、都合のいいデータ漁りが始まることになる。
「ただあいつより低い点で受かったヤツもゴロゴロいるしな」「倍率は今年、ちょっと低めだからな」といった風に。
ちなみにこの問答は、ボーダーがギリギリの生徒に対しても、同様に発生する。不安から始まって、なんとか楽観しようとし、また不安に戻るというループに入るだけだ。
不安も信頼も、やろうと思ったらどうとでもできる。しかし必ず、その2つをループする。抜け出すことはできない。そしてそれに囚われても、何も生まない。
去年も一昨年も三年前も四年前もそういう螺旋に苦しんで、やっと今このことを悟った結果、クソみたいなループから抜け出せそうというところにまで来れた。
結局僕らにとって最後にできることは、神頼みでも無ければ、懊悩とすることでも無い。なるべくいいパフォーマンスを出せるよう鍛えて送り出す。それだけなのだ。
その目的は定量化することが困難なので、ある程度は感覚的なものになる。自己満足の世界だ。だが、よほどウンコみたいな授業をしていない限りは、大体OKだ。
自分の仕事ぶりを振り返っても、それくらいなら自分に認めていいだろうと、ある意味優しい心持になれている。
「健闘を祈る」
「健闘を祈る」。この言葉を選んでいること自体に、深い意味は無い。なんとなく「がんばれ」は嫌いだし、「グッドラック」は軽い。
「応援してるよ!」というのも、普段からそうだろうということなので、言いたくない。そういうのを避けた結果、残ったのがこのセリフというだけだ。
改めて辞書で引いてみると、こんな風な意味だった。
「健闘」は良く戦うこと、立派に戦うこと。「健闘を祈る」は「立派に戦うことを祈ります」という意味。スポーツなどの試合の他、単に「頑張れ」といった意味合いで、幅広く使われる表現。
つまり意味合いとしては「がんばれ」なのだが、それを大人な言い回しにした、という感じだろうか。だがこの響きが、僕は好きである。
結局、過去の積み重ねも大事ではあるが、もっと大事なのは本番でパフォーマンスを発揮し、相対的に高い点数を取るという、ただそれだけなのだ。
そのためには、目を向けるべきは応援してくれた人の声や顔、頑張ってきた努力の総量よりも、目先の問題文だと、僕は考えている。
過去はいい。これからのことも、一旦いい。とにかく、問題とだけ向き合え!
そういう、僕のメタが反映されているような気がする。だから今後もしばらくは、僕の声掛けはこれ一本でいこうと思う。
では今日はこの辺で。