精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

生徒の気持ちに寄り添うということについて、僕の暫定解を書く。

受験を終えた生徒。そしてこれから受験を迎える生徒。人生における勝負所の、入り口と出口。どちらにも、筆舌に尽くしがたい感情の渦があると思う。

 

特に芳しくない結果だった生徒や、心が壊れそうなほどに緊張している生徒を見る度に、僕はほとほと、それに何もしてやれない自分の無力さが嫌いになってしまう

頭抱える」の写真素材 | 3,694件の無料イラスト画像 | Adobe Stock

 

苦しんでいる生徒に、僕ができることは本当に無いのか?いわゆる、気持ちに寄り添うとか、そういうことさえも僕にはできないのか?自己嫌悪がグルグルと始まる。

 

アドラー心理学の課題の分離という言葉で納得したい自分もいる。しかし、それを生徒の課題だと切り捨てることは冷酷すぎると、反発したい自分もいる。

 

つまり僕自身が現在進行形で感情が揺さぶられまくっている折なのだが、だからこそ腰を据えるためにも、このテーマについては思考を深める必要があると考えている。

 

生徒の気持ちに寄り添うとは、果たして何なのか?

 

今日はその暫定解について、つらつらと書いてみる。

 

 

「心の強さ」は別に要らない。

心が疲れている人を励ます。そういうモデルを頭に浮かべると、大抵、豪放磊落で細かいことを気にしない、おおらかで前向きなキャラクターばかりが脳裏に浮かぶ

 

それこそ、ドラゴンボール孫悟空とか、ワンピースのルフィとかだ。こういう太陽のような存在になれれば、確かに関わった人の心を軽くできるかもしれない。

 

しかし、このモデルはあまりにも僕にとって対極過ぎる。一切悩まず、あらゆる物事を前向きに考えることは、僕には絶対にできない。

 

もっと別の方法は、別のモデルは無いのだろうか。いや、どこかに必ずあるはずだ。そう思って、またグルグルと考えた。

 

そんな折、ふと思った。生徒の気持ちに寄り添うためには、心が強いことは絶対に必要なのだろうか

 

生徒に対し一切弱みを見せないこと、ネガティブな感情を含ませないことが、つまり寄り添うための鍵なのだろうか。そう思うと、急に疑わしく感じられる

 

誰かの気持ちに寄り添うために、自分自身の心が誰よりも鋼である必要は、多分無い

そう気付くと、急に肩の荷が下りたかのような、安堵する気持ちを抱いた。

 

それを前提に、続いては色々な人や教えによる、「寄り添うこと」の考え方を読み込んでいくことにしよう。

 

感情を共有することこそが、寄り添うことなのか?

www.sady-editor.com

 

これをテーマに据えた刹那、思い出した記事がある。以前どこかで紹介した記憶もある、このnote↑だ。

 

そこには、こんな一節があり、激しく同意したのをちょっと覚えている。

 

その場に一緒にいた他の経営者に、どんな工夫をしているか聞いてみた。彼も、組織作りに苦労していたからだ。そして、彼の仮説に僕はかなり納得した。

「視点、知識には共感できない。感情にだけ共感できる」

知識や技術は、自分の経験や見えている視野によって、価値が変わる。相手のためと思って伝えても、同じ経験や視野を共有していない受け手からすると、その価値は響かない。むしろ、ダメ出しをされているように感じて、距離を置いてしまう。

それよりも、目の前で起こっていることに対して、「自分は、どう感じているのか」と感情の共有からはじめてみる。相手の感情を理解して、それを踏まえて話すことが重要だと思っていたが、逆だ。自分の感情をまずは伝えてみる。それが寄り添うという行為なのだ。

www.sady-editor.com

 

「感情にだけ共感できる」。この言葉に、大きなヒントが隠されている。直感だが、そう思った。だからさらにヒントが得たくて、別の記事も読んでみた。

www.hongwanji.or.jp

 

すると、この記事の中にも、「確かに」と思える一節を見つけることができた。こちらも紹介してみよう。

 

「心に寄り添おう」とする思いは大切ですが、「心に寄り添えた」と思い込むと、目の前の人の気持ちとはズレてしまいます。

 

また、私たちは実際に目の前の人の「心に寄り添う」ことを完璧に行うのは難しいですが、「心に寄り添う」ための努力は続けなければなりません。

 

心に寄り添うとは -阿弥陀如来に照らされて生きる私たち- | 読むお坊さんのお話 | 浄土真宗本願寺派(西本願寺)

 

佐渡島庸平氏が別の記事で書いていた、「わかる」はコミュニケーションの失敗という考え方ともリンクする。

 

これらのことを統合して考えてみることで、「寄り添うこと」の意味が、僕にもおぼろげに見えてきた

 

ということでいよいよここから、暫定解そのものを書いてみよう。

 

あるがままの感情と、お互いに向き合うこと。

 

それを一言でいうと、今現在お互いが抱える感情を、お互いに晒し合うこと。そして一緒に向き合うこと。それが寄り添う、ということである。

 

そのためには、あるがままの感情を、まずはこちらから曝け出していく必要がある。相手に語らせたり、自分勝手に当て推量したりするのは、少し本質とは違うようなのだ。

 

自分の言葉で相手を救いたい。自分の言葉で相手を傷つけたくない。そういうスケベ心をかなぐり捨てて、正直に、まずは自分の胸の内を晒す。

 

それによって、相手がどこまで歩み寄ってくるかはわからない。それは相手の課題だ。もっと言えば、その辺は話すタイミングと、関係性によっても異なってくる。

 

それについて相手が胸の内を吐露してくれたら、それについてさらにどう思ったかという胸の内を、重ねてまた伝える。愚直に、この繰り返しなのだ。

 

相手のことを理解しよう、とさえ考えない。「わかる」なんてのは妄想だ。できるのはただ、あるがままの胸の内を、お互いが晒し合うことだけだ。

 

落ちた生徒の顔を見ると、自分が受験に失敗した際の何十倍も悔しい。それが本心なんだから、こちらもまずは「俺は悔しい」と伝えることが始まりなのだ。

 

僕たちはカウンセラーではない。そういう技巧的なことは二の次なのだ。決してスマートに傾聴する必要は無いのではないか。

 

それよりももっと人間臭く、あるがままに向き合おうと心掛けること。それがつまり寄り添うことなのではないか。今はこれが暫定解である。

 

鋼の心は僕には要らない。生徒が曝け出した感情を画一化されたものに変換するのが心の強さというのなら、そんなの無い方がマシだとさえ思う。

 

僕は悩んでいる。これからもずっと悩むだろう。だから、それを言葉にして伝える。それを生徒と繰り返す。

 

それによって何がどうなるかは、僕のコントロールできる範囲を超えている。できることをやるまで、である。

 

では今日はこの辺で。

 

にほんブログ村 教育ブログへ
にほんブログ村 にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村 ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村