精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

「不合格」の報告を受けて浮き彫りになった、僕という人間の精神が持つ致命的な「弱み」。 ―ただそれは、「弱み」じゃなかった。

この仕事を始めて7年近く経つが、その中でも飛びぬけて辛い不合格の報告を昨日受けた。正直そのことを思い出すと、まだ嗚咽が込み上げてきそうになる。

 

僕自身、なぜこうも心が揺さぶられたのかをまだ言葉にし切れていないのだが、昨日はいい年こいた大人が、その連絡を読みながら一人泣いていたほどだ。

 

一応僕なりにできる返答はしたが、それについてのレスは無い。その胸中を想像しては、僕もまたひたすらに「辛い」という感情を、否応なく味わわされている。

 

ハッキリ言って、自分事の数百倍悔しい。それによって神経も昂っているようで、心拍数が平常時もずっと高く、身体がとてつもなくしんどくなっている。

 

・・・こういう大ダメージを負いながら、同時に確信することがあった。このコリの中に、僕という人間の精神が持つ、致命的な課題が潜んでいる

 

生徒の悲しい報告に涙する。これだけなら美談に聞こえなくも無いが、それによって自分含めて誰も救われていないという構図には、シビアに向き合わねばならないだろう。

 

今日はその欠陥について、自分なりに区切りをつけつつ、他の講師や教員のヒントになればいいと思い、散文的にプロセスを全て書いてみる。

 

まあ、自分を慰める記事に等しいのだけれども。では以下、本編である。

 

 

自分を罰して、他者から赦してもらうことを期待するという幼稚さ。

 

僕という人間の弱さは、やはり心の奥底で、他者評価に依存している点にある。そのことには、自分の思考の癖を通じて、昔から気付いている。

 

僕は本当に物心ついたときから、自分が何か悪いことをしたときのみならず、他者が苦しそうにしているときは、どうにかこうにか自分のせいにしようとするクセがある

 

それによって、自分でひたすら自分を責めて、それを繰り返すことによって、他人から「もういいよ」と言ってもらうことを期待し、待つ

 

そういう本当に自己中心的な問題解決策を捨てきれないことをずっと自覚しながら、でもどこかで向き合ったかと言われれば否という、そんなことを重ねてきた。

 

三者視点から見ると、この幼稚さが浮き彫りになる。僕が僕を責めて、他人から赦してもらうという構図で救われる人間は、つまり僕だけなのだ。

 

本当に寄り添うべき相手に寄り添わない。これはもはや、逃げである。究極の無責任である。そう悟れば悟るほど、何故か心が落ち着いてきたのを感じる。

 

―話は変わるが、最近、悶絶整体という、関節・筋肉に不調を抱えた人に施術する様子を撮影したYouTube動画をよく観ている。

 

長年の悪い姿勢などが積み重なり、筋肉が凝り固まってしまい、治す際には激痛が伴う。しかしその激痛に耐えて解きほぐさねば、その痛みを消すことはできない。

 

そういう痛みにのたうち回りながら、終わった後にはスッキリしている人たちの姿を見ていると、今の僕の状況に少し似たものを感じている。

 

徹底して己の弱さと向き合うことは、コリをほぐし、あるべき姿に正し、それを維持していくことなのではないか。

 

骨が歪んでいれば、筋肉を解したところで、またいずれ固まるのと同じだ。だから、今回は内省をここで止めない。もっと密に、向き合ってやる。

 

続いては、コリの最深部に届かせるべく、色々調べてまとめた記録を書いておく。

 

己の「弱さ」とは本当に弱さなのか。

 

己の弱さを受け入れることとは、つまりどうすることなのか。しっかりと心を観察し、それを言葉にすれば、それがすなわち「受け入れる」と言えるのか。

 

まずそこからわからなかったので、他人のコメントを読むことから始めてみた。すると、大枠はその通り、目を背けないことが始まりのようであった。

 

だから冷や汗をだらだら流しながら、僕が自覚している僕の弱さを、ひたすらディスクリプションで書き殴っておく。

 

僕は他者に共感しようと努めるものの、その苦しみを背負い込むだけの心の強さが無い。自分を責めるが、他人を救う様な声掛けができない。

 

誰かに赦してもらわないと、自分を赦すことができない。人から恨まれることを言葉では望みながら、実際にそうされるとそれはそれで落ち込む。

 

未来に目を向けなければならないと思いながらも、未来に目を向けることは無責任ではないかというメタが邪魔をして、結局どちらも半端になる。

 

・・・という具合だ。なんか、すごく自分が嫌いになりそうだ。しかし書いてみると、別の感想が不思議と浮かんだ。「あぁ、これが俺だな、確かに」というものだ。

 

弱さを書き殴る。これは、凝り固まった筋肉を無理矢理力で解すとか、黒歴史の詩を晒されるようなもののはずだった。

 

しかし、なんか今は、ただそのままの字面通りに受け取れている。俺は何と人間臭いのかと、なんかほほえましい気持ちさえ湧いてきた。

 

・・・その上で、僕の目線が決定的に切り替わるきっかけになりそうな言葉に出会うことができた。それは、このブログに紹介されていた文章だ。

shinshu-critique.hatenablog.com

 

引用に引用を重ねる形になるのだが、その中のこの一節を繰り返し読むうちに、心がすーっと軽くなっていくのを、はっきりと感じたのだ。

 

自らの弱さを、自分の生き方への問いかけとして聞くようになったのは、ある人から「本当の主体性は、うずくまってしまうような弱さの中にいきづいている」という言葉をかけていただいたことから始まった。

 

そこには人間の弱さを限りなく尊ぶ眼差しがあった。

 

その眼差しを受けて自分の弱さが、弱い自分を嫌悪する私を痛む問いかけの声となり、その中で、記憶から消し去っていた幼い頃の光景と、強弱で裁く世界に悲しさを感じていた自分の心が少しずつ蘇ってきたのである。

弱さを弱さとして認めることができる教え(中山善雄氏が書いた『ともしび』[2018年8月号掲載]について) - What is Shinshu?

 

解釈が間違っているかもしれないが、僕はこの言葉を、僕という人間の核となる部分は、僕が「弱さ」と定義している部分にこそあるのでは、と思ったのだ。

 

逆に、世間が言う強みとは、あくまで世間が求める像に過ぎず、本当に強さとして定義されるかどうかは極めて微妙なのでは、と思えてきた。

 

強さとはそもそも相対的なものだ。身長が2mあれば、バスケやバレーで活躍できるだろうが、乗馬の騎手としては不利になるのと似ている。

 

逆説的な話だが、己の弱さとして考えていたことにきちんと目を向けた結果生じたのは、それは本当に「弱さ」なのかという疑問であった。

 

むしろそれは、僕が本心から「こうありたい」という声なのではないか。そこから出発して、世間が言う強さに迎合できるところは、そうすればいいのではないか。

 

「強さ」という客観的な基準があるから、「弱さ」を消すべく努力する。これは恐らく、起点が逆なのだ。

 

「弱さ」を認め、その上でそれは世間が求める「強さ」のどれに近いかを考える。その方が、正確だし、健全なのではないか。

 

となれば、もう一度他の人の言葉を借りるべきだろう。僕が思う短所は、どう言い換えれば、強さになるのか

 

僕の弱さを端的に書き換えることは、そんなに難しくない。過去何度も他人から指摘されてきたからだ。

 

例えば、「責任感が強すぎる」「真面目過ぎる」「他人に対してネガティブ過ぎる」といった風に、だ。

 

ここまで書き並べて気付いた。僕がいう「弱み」は、全然弱くない。むしろ逆で、強すぎるがゆえに、自分にダメージが入っているという方が正確だ。

 

これはいわば、僕が制御しきれていないだけで、これこそ他者と比べても秀でている可能性がある才能と考えることも可能なのではないか。

 

弱みなのではなく、強すぎて振り回されている。そう思うと、ひそかに心が昂ってきた。僕の「弱み」は、「弱み」でもなんでもなかったのだ。

 

―となれば、問いが更新される。どうすればこの強すぎる感情を、制御することができるのか、だ。ただし実はこのヒントも、僕の中で見えている。

 

それは、自責・罪悪感を意識して切り離すことだ。責任感が強すぎると言われるゆえんは、自分に非が無いことをも背負い込んで、それによって自分を責めるためだ。

 

自覚はしているが、それを捨てるのは本当に容易ではない。なぜなら、僕は自罰に依存している節があるからだ。

 

過去の失敗を悔やむことは僕にとってゆるぎない正義であり、その苦しみこそが自分の自尊心を支えているようなもの。だが、つまり苦しく、救われない

 

もう当人への償いはできないのだから、前だけ向いて、他の人へ施しをする。これが無責任な響きにしか聞こえず、一体どうすればいいのかが本当に袋小路だ。

 

しかしそれでも、僕がしなければならないのは、少しずつでいいからまず、自分に対して慈悲の心を持つことなのだと納得している。

studyhacker.net

 

やはり起点がズレていると、そこから先の目的もズレる。自分を赦していない状態で、他人のために何かしようと思うと、その言動は全て自責・自罰の意味を纏う。

 

もちろん、最初の生徒の例で言えば、「落ちたものは仕方ないなっ」と割り切るカスになるのもすごく抵抗がある

 

それはしこりとして自覚しながら、それでも己の一部として受け入れる。その痛みは忘れないようにしよう。でも自分を責めるのもやめにしよう。

 

人は思ったよりも強いはずだ。例えば僕は腰に一生物の怪我を負っている。だがそれを悔いることはおろか、意識することもまれだ。時折傷んでも、そこまで気に病まない。

 

痛みは痛みとして、受け入れられれば自分の一部に内包できる。受け入れるために必要な物は何か。

 

そうやって考えると、やっと根源的な問いが見えてきた。「この経験をまずは言葉にするとしたら何になる?」「その経験値で周りの人にどう貢献できる?」

 

自責はしない。自罰もしない。あるがままに痛みや苦しみを観察し、切り離した経験値として言葉にして、教えを取り出し、それを活かしてまた働く。

 

―色々同じことを何度も書いている気はするが、自罰は結局誰も救わないことに、僕はいい加減気付くべきってことなのだろう。安直な手段に頼り過ぎなのだ。

 

僕が思う「弱さ」は「弱さ」ではなかった。僕が考えていた「強み」は、なんとも儚い物だった。そのことに辿り着けて、やっと前を向く勇気が出た。

 

苦しみを咀嚼し、己の一部にする。こういう経験を数多く重ねた人は、それこそ誰よりも優しく、誰よりも人間的に深くなるのだという。

 

僕も願わくば、そうなりたいものだと思った。まずは生徒の苦しみに、僕は逃げずに立ち向かうことにする。ただし自分を責めないよう気をつけながら。

 

では今日はこの辺で。