人間の脳は本当に不思議だと思う。ずっと考えて考えて、それでも「こんなもんかな」という暫定解が限界だったのに、寝て起きればそこから新しい観点を得ていたりする。
昨日僕は、こんな記事を書いた。不合格になった生徒の報告を受けて、それをきっかけに、自分の心の弱い部分と向き合ってみた話である。
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そのときも結構な文字数を使って、様々な情報源を基にしながら、苦労しつつも自分の感情を言葉にして、そしてし尽くしたつもりだったのだが・・。
最初に書いた通り、寝て起きた今、また新たな解答が頭の中にできている実感がある。しかもこちらの方が、よほど腹落ちしている。心の底から納得している。
つくづく思うのだが、やはり自責・自罰は幼稚な考えであり、前を向くことは無責任ではなく本当の意味で、強い。
今日はその僕なりの納得を、また改めて言葉にしておく所存である。
自責こそ正義だと考える人に、見えていない世界。
なぜ自分を責めるのかというと、それによって不幸になる存在ができたからであり、その罪は償わねばならないという論理によるものではないかと思う。
しかしよく考えれば、正直に言うと、誰かの幸福は、そもそも誰かの不幸と表裏一体ではなかろうか。
受験を考えてみるとわかり易い。自分が受かったということは、それはつまり、他の誰かを蹴落として受かっているのだ。すなわち不幸な存在を生んでいる、と。
もしかしたらその人は僕より必死で、目的意識をもって努力していたかもしれない。となれば、僕が受かったことは、それは悪なのではないか。
悪なのだとすれば、罰を受けねばならないのではないか。合格とは、悪いことなのか。まぁ、即答するが、ホンマにアホなのか、と。
暴論である理由は、世の中で働く人は全員、不幸な存在を生んでいるから悪となる点にある。警官も、犯罪者を逮捕してその人を不幸にしているから、悪だ。という風に。
なんなら僕ら塾講師も、通う生徒の学力を上げて、彼らを受からせる代わりに、他に落ちる生徒を生んでいるから、悪なのか、と。なんかもう、アホくさくて仕方がない。
僕を始めとする自責大好き人間には、ここが見えていない。結局人間は、生きてるだけで、誰かの何かを頂いている存在なのだ。
部屋で引きこもりの暮らしをしていても、食事として何かの命を頂き、食いつないでいる。僕らは絶対に、この因果から逃れることはできない。
―ではここと自罰・自責がなぜ相容れないのかというと、それは、そうしたところで、不幸な人間”しか”生まれないことが大問題なのだ。
僕が自分を責めてクヨクヨすれば、僕は苦しい。だがその姿を見て救われるのは、ダークパーソナリティを持つ一部の人間だけだ。
ほとんどの人間からすれば、「いや、落ち込んでる暇があったら、働けや」なのである。
先の例でいうと、警官も犯人の目線で見れば悪かもしれないが、それによって遥かに多くの人間の現在と未来を救っている。
大事なのはそこだ。今回も、不合格という現実は絶対に変わらないけど、それによってこれから先の不幸な人を減らす選択をすることは、確実にできる。
前を向くということは、辛い結果を受け止めたうえで、そこから不幸な人を減らすにはどうすればいいかを論理的に考えれば、必ず導き出せる答えだ。
今ようやく、そこまでたどり着けて、心が本当に昂っている。
結局この世は、各人が各人の手が届く世界の守り合いである。そういう意味では、弱肉強食なところもあるように思う。
僕は僕の手が届く世界を、確実に守れるようになりたい。一人を泣かせた今、二人以上を笑わせる義務があるはずだと、そう独り言ちている。
それでも地球は回っている。
手が届く世界を守るとだけいうと、僕のメタがまた語り掛けてくる。「それもそれで無責任じゃないか?」と。本当に幼稚だなと、自分のことなのに微笑ましく感じる。
実を言うと、手が届く世界を飛び越えたら、守ることはおろか、予測することさえ絶対に不可能になる。
例えば、受験に合格し、志望校に受かることは、必ずしも正解なのか?人生とはそんなにもシンプルなのか?そういう疑問も立つ。
極論だが、志望校に受かった結果、自分にとって最悪な人間との出会いが待っており、心を折られて再起不能になったとすれば、合格はつまり、人生の失敗になる。
また友人の例だと、二浪して目指した志望校に落ちて、不本意で進学した学校で結婚相手に出会った、なんて話もある。
もちろん、仕事やミッションとして、「合格」という結果にはこだわるべきだ。しかし、その後のことまで考えると、身動きが全く取れなくなってしまう。
僕が寄り添うべきは、やはり今現在、手が届く世界。その子が抱える感情に、一緒に折り合いをつけること。これに尽きるのだ。
その後のことは、わかるわけがない。確実なのは今このときという時間軸のみ。そのことは履き違えず、前向きに頑張りたいと思う。
人智を超えた部分を補うために、神はいるのではないか。
佐渡島庸平氏の「観察力の鍛え方」にあった問いで、すごく面白いと思ったものがある。それは、人はなぜ、「妖精」を生み出したか、である。
誰かが事故に遭ったとか、作物の収穫がイマイチとか、そういう際に誰も悪者にしないため、「妖精」という人智を超えた存在のせいにして、納得した。
確かそんな話だったと思う。すごく面白い考え方だと思うと同時に、素敵な工夫だなとも思った。
そしてその点から考えると、似た話は古代日本から存在するように感じている。
天狗、座敷童、風神、雷神。目の前の人智を超えた事象に説明をつけて、そしてそれを受け入れるため、人々は神や妖を生み出したように、今なら思えてくる。
となればそもそも、人智を超えた部分を取り扱うのは、文字通り神の仕事なのではないか。人間が手を出せば、処理しきれずにパンクするのも、当然なのではないか。
僕らは僕らが手が届く世界を広げる努力を重ねながらも、それでも厳然と存在する限界の中で、自分にできる慈悲と利他に取り組めば、もう十分なのではないか。
そしてそこを超えた、僕に守り切れない部分は、神がきっと守ってくれる。そう思うことができれば、ずいぶんと心が軽くなってくるように思う。
僕が受からせたことで将来的に不幸が待っているかもしれない。逆に、僕が落としてしまったことで、将来的に幸福が待っているのかもしれない。
だがそんなもの、人に扱い切れる話ではない。だからそこは、神に任せるべきなのだろう。神を信じる意味が、ようやく少し理解できた気がする。
例えば阿弥陀仏さまは、救済を求める者全てを、遍く救うとされる。僕にできる努力の範疇を超えた世界は、阿弥陀仏さまにお願いする方が自然なのではないか。
人事を尽くした先は、天に任せる。僕が辿り着いた解は、こんなところである。
そして、失敗についてクヨクヨ考えることは、生徒のためでは無く、極めて自己中心的な行動であり、幼稚だ。それが伝わっていたら嬉しい。
後はこれを何日もかけて、僕の腹に落としていくのが大事となる。臥薪嘗胆ではないが、阿弥陀仏さまの仏像を1つ、校舎の僕の本棚に置いておこうかなと思う。
では、今日はこの辺で。