精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

【2023年版】合格発表前日の講師の胸の内を、徹底して書き出すエントリ。

去年の高校入試の合格発表前夜、こんな記事を書いた。

jukukoshinohibi.hatenadiary.com

 

1年ぶりに読み返してみたが、当時の自分が抱いていた感情や胸の内が凄く色濃く書かれていて、自分の言葉なのに熱いものが込み上げてきてしまった。

 

そのときの感情そのものは、既にどこかへ流れ去ってしまっており、今更振り返ってもまた拾うことなどできはしない。そういう意味では、書き残しておいて正解だった。

 

―しばらくその不安と恐怖は込み上げてこなかったのだが、ここ数日、改めてそれらが立ち込めてきて、荒波の如く心を飲み込もうとしている

 

その胸の内を掻きむしって絞り出さねば潰れてしまうほど、現に物理的な苦しささえ感じている。その一方で、食欲さえも、全く湧いていないのだが。

 

ということで自分自身の神経症傾向の強さに呆れながらも、今現在感じている気分を、すっきりするまで延々と書き出そうと思う。

 

 

率直に思うこと。

 

時折、あまりにも強く感情を入れ込んでしまう生徒がいる。

 

それは例えば、僕に懐いてくれた子だったり、過去の受験で落ちたのに継続してくれたりと、そうなるに値するストーリーがあるものだ。

 

受かれば当然自分のこと以上に嬉しい。だが落ちれば、自分がそうなるのより何十倍も苦しい。そして先日、ダメだったという報告を受けて、涙腺が決壊してしまった。

 

「本番には魔物がいる」という言葉をまざまざと実感する。いくら平時の調子が良くても、本番でコケれば合格という二文字は得られないのだ。

 

一方、いくら平時が微妙でも、本番で一発当てれば合格という二文字が得られる。僕らの仕事は、その確率をできるだけ”高める”ことなのだ。

 

あの子は受かるか、否か。そんなもの、過去のデータを見ても絶対にわからないのだが、時間があればすぐ、過去の塾生の数値を見て、一喜一憂してしまう。

 

ボーダーを下回っても受かった生徒の数値に安堵し、かと思えばボーダーを上回って落ちた生徒の数値を見て絶句する。その繰り返しだ。僕の心は今、メタメタである。

 

そして毎回毎回、同じ結論に辿り着く。分かりっこない。絶対に。合格を決めるのは、当日の成績である。過去の集積は、言ってしまえば関係ないのだ。

 

頑張ったヤツが受かるのではなく、他の奴らより相対的に高い点を取ったヤツが受かるのだ。しかも合格発表前日の今日の時点で、とっくに結果は出揃っている。

 

既に結果が出たものを、一体どうして僕という人間一人の力で変えられようか。自罰的なのに無責任すぎやしないか。アダルトチルドレンの定義そのものである。

 

ちょっと前、僕は僕自身に、ちゃんと結論を出したはずだ。「自分の手が届く世界で、生徒に寄り添う」というのが、僕の矜持なのだと。

 

結果は変えられない。そして合格を不合格にはできない。だが、生徒の苦しみを共に背負い、生徒の喜びを共に祝福することはできる。できることだけすればいいんだ。

 

僕という個人の力を超えた後は、神の領域だ。そこに無理に手を出すと、身も心も滅ぶのは、先人たちが何度も示してきたシビアな現実である。

 

―それに。そもそも言ってしまえば、高校受験は所詮通過点だ。どちらに転ぼうが、人生を決めるほどの力など、そこには無い。

 

志望校に通った結果、完全に落ちぶれた生徒もいる。逆に受験に失敗した結果、そこで良い内申点を重ね、評判の良い学校に進学した生徒もいる。

 

受かれば幸せ、落ちれば不幸。瞬間的な視点から考えれば、それはいちいち語るのもアホくさいほど当たり前の話である。だがそれは、油断すると観点から抜ける。

 

厳然と突き付けられる結果。ただしそれは、せいぜい2~3年くらいしか影響を与えないと思う。

 

同級生と話をするとき、今更高校受験のことを持ち出すヤツは、不思議と一人もいない。それもまた、このイベントが人生を決め”ない”ことの証左ではないか。

 

こんな風に、僕が思う責務に真正面から向き合おうと思うと、僕自身の限界というものがじわじわと、だがはっきりと、浮かび上がってくる。

 

そして合格発表を前にして、いつも通り過ごしている生徒の姿を見ていると、彼ら彼女らは本当に強いのだと腹落ちしてくる。

 

―どちらの結果を突きつけられようが、この子達なら大丈夫だ。何故か突然、そう思えた。そしてそう信じることで、気持ちがスッと軽くなった感覚がある。

 

こり固まって強い痛みを発していた患部が、急に解れたかのような気持ちだ。僕は僕が安心したいがために色んなことを調べたり納得したりしようとしたが・・幼稚だな、と。

 

だが、僕が慈しむべき個性というものは、この弱さにあるのだと、今は考えている。32歳になる今年の宿題は、この弱さに折り合いをつけること、だな。

 

・・・あぁ、すっきりした。去年もある程度書いたら急にスッとした記憶があるが、今年もどうやらそうだったらしい。

 

僕の心を搔き乱すメタは、所詮2000文字程度のものなのか。拍子抜けしてしまう。だが、やはり書くことは心が落ち着く。救われるといってもいいな。

 

―さ、泣いても笑っても明日が発表だ。どちらの結果が出ても、あいつらなら大丈夫だ。悔しさか、嬉しさか。いずれにせよ、きちんと向きあい、分かち合おう。

 

それが僕の仕事なんだから。

 

では今日は、この辺で。

 

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