僕は割と、運勢というものを信じている。調子が良いと感じれば、手を緩めないよう心がける。逆にツイてないと思うときは、気を張り過ぎないように自戒している。
これは「運を支配する」という本の教えの受け売りなのだが、シンプルにこの通りの行動をとっていると、掴みどころのない運に、少し手触り感が出たように思っている。
そして今、はっきりと好調の波が来ているのを感じている。合格実績について、今年は非常によかった。それこそ、過去最高の好成績と言っても過言ではないほどに。
更に、それに呼応するように、新規の問い合わせもついに動き始めた。波は来ている。ならば、乗るしかない。そしてそれが来ている限り、手を抜いてはならないのだ。
勝ちながら二の矢・三の矢を放つものが勝つ。その教えに従うならば、僕はここから、休日全てを返上してでも、新規問い合わせを取り切るくらいの覚悟が求められるのだ。
―だが、こんな風に脇目も振らずに仕事へ取り組んでいると、実は無駄な作業が大量に発生することが、僕の中でよくある。
そして変な話なのだが、それを言葉にするのは結構難しい。思い付きとして頭に浮かぶが、気付けばふわっと消えている。
ここでいう無駄な作業とは、そういう施策とさえ呼べない段階のアイデアのことだ。それが頭の中に詰まってくると、「忙しい」の意味合いが変わるから厄介である。
これは要するに「忙しい」のではなく、要領が悪くなり、仕事が片付かなくなっているということだ。このモードは自覚すら難しいので、その対処には難儀する。
だから色んな手を試してきた。そして今、一番しっくり来ている手段は、「何もしない時間」を意図的に挟むという方法だ。
導入が長くなったが、今日はその話を書いてみる。
無駄な多忙は、脳の独り言に過ぎない。
出典を忘れたのだが、その通りだなと強く思う言葉がある。それは、「脳はおしゃべりが大好き」というものだ。
ここでいうおしゃべりとは、頭に浮かぶ思考一つ一つを指す。試しに手を止めて、目を瞑ってぼーっとしてほしいのだが、すぐに色んな雑念が浮かんでくるはずだ。
それを観察してみると、漠然とした不安、過去の黒歴史、残っているタスクなどでほとんどが構成されていることに気付くと思う。
それらはつまりネガティブな何かなのだから、なんとかしなければならない。輪郭が掴めていなくても、行動を起こして解決に乗り出さねばならない。
だから焦る。その焦りこそが、巡り巡って見せかけの多忙を生む。実体のない不安に駆られて思いついた行動は、全く地に足がついておらず、現実味も無い。
とりわけ厄介なのは、冒頭にも書いたが、それに気づくことそのものが困難であることだ。充実した多動なのか、無駄に多忙なのか、工夫が無ければ区別できないのだ。
・・・では、その2つを明確に切り分ける方法とは何なのか。その一環として最近試しているのが、敢えて手を止めることだ。簡単に言えば、本当にぼーっとする。
僕が装着しているFitbitには、3分間マインドフルネスに集中する的なモードがついている。
これを活用し、外に出て雲を眺めながら、あるいは一人になれる場所へ移動して外の音に集中しながら、3分間頭を空にする。
頭の中に立ち込める雑念は、出来る限り無視する。取り合わない。というより、浮かんでは消えるに任せ続けるのだ。
―そして一旦クラッチを上手く切ることができると、頭の中のおしゃべりが止まっていることが多い。結果、見せかけの多忙も、同時に相当鎮まるのだ。
逆説的だが、忙しさを止めることは、敢えて何もしない時間を挟むことにあるようだ。人によっては、例えばそれが散歩でもいいのかもしれない。
そしてこのマインドフルネス的な行動は、意識すればどこででも実践可能だ。試しに今度コーヒーを飲む時なんかに、その舌触りや香りに集中してみてほしい。
その間、あなたの意識は今ここに向かう。何もしない時間とは、今このとき以外に意識を向けない時間のことなのだ。
しなければならないことは、確かにたくさんある。だがそこに、しなくてもいいことが混ざり込んでいやしないか。時には手を止めて、観察するように心掛けたい。
では今日はこの辺で。