精神年齢9歳講師のブログ

校舎での出来事、読んだ本、つまりインプットを全てアウトプットに変える実験場、的な。

僕のそれはアマアマや。本気の「覚悟」は文字通り鬼気迫るものなんだと実感した。

「覚悟」という言葉がある。僕は「腹をくくること」といった意味で考えており、もう後には退かないと心の底から自分を納得させた心境を指すと捉えている。

 

僕自身、「この校舎は絶対に潰さない、むしろ反映させてみせる」とか、「新規問い合わせが来るまで休まず働く」といった覚悟を、自分では決めている・・つもりではある。


しかし、よく考えたら僕は、本当の覚悟を知らない。エンタメ作品の中で演者が体現した迫真のそれを見たことはあるが、それはあくまで、真に迫ったものである。

 

「この人、なんて覚悟なんだ・・」と鬼気迫るものを見たことが無い。剣道の打ち合いを見たことはあるが、真剣の斬り合いを見たことが無いのに似ている。

 

本物を知らずに、腹を決めることはできるのか。覚悟と言えば、武士として生きた人たちの生き様が頭に浮かぶが、当時は文字通り、死と殺が日常にあった頃だ。

 

そんな風に、自分は偽物のそれを抱いて悦に入っているだけではないかと晴れない気持ちがどこかにあったのだが、ついこないだ偶然、本気の「覚悟」を知ることができた。

 

それを読んだとき、僕は絶句した。文字にされたインタビューのはずなのに、そこから鬼気迫るものを感じたためだ。

 

それによって自分の覚悟の甘さを悟ったが、だが同時に、それによって自分の問いを更新することもできた。つまり「覚悟」とは、なにか。

 

今日はその興奮を記事にする。

 

 

「覚悟」が足りない、とは。

drive.media

 

そのきっかけとなったインタビュー記事は、↑である。約6年前のものなのだが、その中のやり取りに、鬼気迫るものを感じた。

 

途中途中を抜粋すると、前後の文脈が無い分ヘンな風に聞こえるが・・。とりあえず紹介する。そのやり取りはこんな風に始まる。

 

片山:学生の中には「自分のものさしで生きる」といよりも、「見栄」とか「いかに楽をするか」ということに目が向いている人が多い気がします。

 

佐渡島:その「楽をしたい」は、本当に楽なんですかね?

 

片山:本当に楽かどうか……?

 

そこから少しやり取りを経て、どんどんこの【質問】が鋭さを増して、インタビュアーに飛び始める。

 

やっぱり、「死が身近じゃない」という感覚が、自分の覚悟をぼんやりさせているんだろうなと思って。みんな、来年死ぬぐらいのつもりで活動してみるといいんじゃないでしょうか。

 

片山:きっと切羽詰まりますよね……。

 

佐渡島:切羽詰まるというより、何をするかが決まると思いますよ。

 

片山:何をするか?

 

佐渡島:はい。片山くん、今日はこの後どういうふうに過ごしますか?

 

片山:オフィスに帰って、明日開催予定の起業支援イベントの準備をします。

 

佐渡島:1年後に死ぬとしたらどうしますか?そのイベントを手伝いますか?

 

―こういうある意味究極的な問いから、僕が鬼気迫ると感じた部分まで展開していく

 

佐渡島:何でそんなことに関わるのですか?片山くんじゃない他の人がやっても、参加者にとっては同じようなイベントができるかもしれませんよ。

 

佐渡島:たとえば、今日はそのイベントを手伝うのではなく、親と会っておいたら、親は1年後にいい日だったと思うかもしれないですよその方が、価値があるかもしれない。

 

佐渡島:やっぱり、それは覚悟が足りてないんですよ。なんでそれに関わっているのか?どう良くしたいのか?それがないのは、他人が「良い」と思ったものに、時間を費やしているだけじゃないですか。

 

佐渡島:なぜですか?たとえば、それとアフリカで餓死する人が減るのと、どっちが「良い」ですか?

 

佐渡島:考え方が未成熟だと、シンプルに「医者」になることが「良い」と思うかもしれない。人を助けることによって、自分に価値があるって簡単に思えるからね。もちろん深く考えた上で、医者になって人を助けたいって思うのはいい。でも片山くんは、なんでその人たちを助けることを「良い」と思うんでしょうね。意地悪に言うと、そこに欺瞞はないですか?ちゃんと自分と見つめ合っていますか?

 

正直こんな風に深遠な問いを矢継ぎ早に質問されたら、今でも僕は泣いてしまう気しかしない。芯の有無を真っすぐに問いかけ、揺さぶる。

 

一旦手を止めて、自分がこの質問をされたという目線で読んでみたが、本当に冷や汗が身体を流れるのを感じたほどだ。

 

著書やブログには書かれていない佐渡島庸平氏の【覚悟】を、僕はそこから強く感じた。一体どうしてこんな質問ができるのだろう。

 

仮説だが、これら全てに自分は即答できるからこそ、人に同じことを尋ねられるのではないか。

 

つまり、いわゆる覚悟とは、「よし、覚悟、決めた!」といった刹那的な誓いではなく、こういう自問自答を気が遠くなるほど繰り返した集積や結果なのではないか。

 

そう思うと、僕に覚悟が足りない理由が身に染みてわかってきた。僕がサボれば校舎が潰れるという悲愴な未来だけでも、足りない。

 

もっと生徒の成績を上げたいという想いだけでも、足りない。僕に足りないのは、僕自身の価値観を、もっと言葉にして向き合う時間だ。圧倒的にそこが足りない。

 

水面下で膨大な思考を重ね、言葉として目に見える形にする。そしてそれを更新する。本来の覚悟とは、そうなのではないかと、今は得心している。

 

「覚悟」は”力み”なのか。

 

ところで、覚悟の意味は元々何なのか。調べてみると、どうやらこれは仏教用語であるとわかった。だからその解釈も、いくつか存在するらしい。

 

まだ腑に落とせてないのだが、一例を紹介する。

 

一般に「覚悟」と言えば、重大な〈決意〉や〈決心〉を意味する。「決死の覚悟」といえば勇ましいが、逆に「お覚悟めされ」といえば諦めの心持ちを示す。しかしながら仏教でいう「覚悟」は、真理を〈さとる〉、真理に〈目覚める〉ことを意味する。

www.otani.ac.jp

 

真理に目覚めることこそが、覚悟。勇ましく、力んで、肩の力を入れて邁進するというより、迷いがなくなった状態が本当の「覚悟」。

 

何度もこの部分を読み返すうちに、夥しいほどの自問自答が覚悟を作るという自分の仮説は、大枠で間違っていないように思えてきた。

 

覚悟はすぐにできるものではない。それは錯覚だ。「覚悟を決めた!」という一言は、単に思考を停止し、気合と根性で何とかしようとする行為に他ならない。

 

つまり、「頑張る」という言葉と同じ意味になることもある。だとすれば、覚悟とはある種の力んだ状態ではなく、自分の想いや価値観を腑に落とした状態の方が近い。

 

人が言う「良い」に振り回されず、自分が思う「良さ」に従う。そのためには、その「良さ」をしっかりと言葉にしなければ、始まらない。

 

自分の「良さ」を見つけ出すためには、何度も繰り返し、自問自答を重ねる必要がある。データが足りなければ、行動を起こし、その感想を基にまた自問自答する。

 

僕の「覚悟」は、まだ始まってもいない。そう思うと、イヤになる部分もあるが、同時にまだまだ自分について未知があることに、心が躍る気持ちもある。

 

それが集積したら、どうなるのだろう。そんな日を夢に見ながら、今日はこの辺で。

 

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