精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

楽観もせず、悲観もせず、ひたすら観察を続ければ、いずれ心穏やかなり。

記事を読むとバリバリに伝わるが、僕は神経症傾向が強い。不安や悲観が恐怖の域にまで簡単に増幅し、それで頭がいっぱいになることなんてしょっちゅうだ。

 

いい加減これを制御したいと考えており、ではそのために何をすればいいのかを改めて調べ直して、そして今は結論として、中断していた瞑想という習慣を復活させている。


ちょっと前までは、瞑想を毎日20分やるというそれなりにガチな日課があり、それをしていた頃は色々と平穏無事だったのを思い出したからだ。

 

脳内の独り言に耳を貸さない。楽観もしない。悲観もしない。気が反れたと思ったら、再び呼吸に意識を向ける。それを既定の時間、繰り返す。

 

これを繰り返し、上手く深い集中に入れた時には、エクスタシー的な意味ではなく、すごく気持ちがいい。気が晴れる。大袈裟だが、それこそ病みつきになるほどだ。

 

ということで今日は、ストレスに晒されがちな教員や講師の方に向けて、この瞑想という心のトレーニングについて、僕の知見を簡単に書いておく。

 

 

前提:瞑想は悩みを”消す”のではない。

 

ただまず最初に伝えておきたいのだが、瞑想をしても、悩みが根本から消えることは無い。そうではなく、悩みとか不安に囚われなくなるための修行だと、僕は感じている。

 

座禅を我流で真似をして、自然音をアプリで聞きながら瞑想を始めると、2~3分も経たずに色んな思考が立ち込めてくる。

 

過去の黒歴史、終わっていない仕事、漠然とした未来への不安。気が付けばそっちに意識を持っていかれそうになる。

 

それを自覚し、改めて呼吸や、流れてくる環境音に意識を向ける。すると、また気が反れる。反れたらそれを改めて自覚し、また集中の対象を切り替える。

 

これを繰り返すと、感情や思考を、どこか他人事として観察できるようになってくるスマホの陰惨な広告も、「こういう作品ね」と、反応せずあしらえるようになる。

 

僕はこういう、自分の感想や感情を割引いて物事を見つめるのが、すごく苦手だ。SNSの罵詈雑言を読むと、何故か自分の心が疲れ、自分が悪口を言われる以上にしんどい。

 

しかし、そういう言葉は言ってしまえば、僕には関係のない世界である。勝手に反応して勝手に疲れているだけなのだ。注意の対象を即座に切り替える。

 

瞑想とはそのためのトレーニングなのではないか。悩みを消すのではなく、ネガティブに囚われているのを自覚し、意識を反らす一連の作業を、高速で行えるようにする。

 

僕はそう納得している。実際、今は習慣を復活させて3日目とかなのだが、既にある程度、注意の対象をサッと切り替えることができるようになっている。

 

例えばスーパーで聞こえてくる井戸端会議に意識が向いても、それをすぐ自覚し、その辺のマヨネーズの商品名に意識を向けることができている。やはり、心穏やかだ。

 

意識を向ける対象を自在にコントロールし、必要に応じ心のスイッチを切ることさえ可能にする。その域まで行きたいと思うが、まずは欲張らず、ただ継続を心掛けたい。

 

【不安】という秘書を正しく理解する。

 

僕は僕自身の強い不安感について、「心配性な秘書のような存在」という風に解釈している。

 

実際、不安に感じるときは、大抵何かが抜けているか、準備が不足しているからだ。直感の声を拾うことで救われた経験は、それこそ枚挙に暇がない。

 

だがこの秘書の取り扱いは、結構難しい。ボヤになりそうな抜けを伝えているのか、それとも杞憂をただ並べているのか、判断するのはなかなかの難問だからである。

 

しかし、瞑想を重ねて一歩割引くという視点を少しずつ獲得していくと、この2つを明確に分けるラインが、どうやら存在するっぽいということが見えてきた。

 

これはただの仮説なのだが、準備不足等による不安は、少し考えれば言語化できるし、かつかなり強い感情となり、解消されるまで何度も意識に上ってくる

 

一方どうでもいい不安は、一旦そこから意識を切ると、思い出せないことがほとんどなのだ。

 

今日もあったが、結構深刻な悩みだったはずなのに、少し他のことをやった後に思い出そうとしても、跡形も頭に残っていないのだ。つまり、どうでもいいのである。

 

僕の中の責任感というメタは、あらゆる不安に対し即座に反応し行動せよと急き立てるが、2分程度後回しにしたって、ぶっちゃけなんにも変わらない。

 

頭の中が喧しいと思ったら、2分程度呼吸に集中する。それだけで、不安と杞憂の切り分けは上手くいくことがほとんどだ。

 

塾業界も教員も、年度切り替えの時期で、とにもかくにも繁忙となる。膨大なタスクに猛然と取り掛かるのも一手だが、敢えて一歩引くという手段も持っていてほしい。

 

楽観もせず、悲観もせず、ひたすら観察を続ければ、いずれ心穏やかなり。本当にそう感じている。

 

では今日はこの辺で。

 

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