記事を読むとバリバリに伝わるが、僕は神経症傾向が強い。不安や悲観が恐怖の域にまで簡単に増幅し、それで頭がいっぱいになることなんてしょっちゅうだ。
いい加減これを制御したいと考えており、ではそのために何をすればいいのかを改めて調べ直して、そして今は結論として、中断していた瞑想という習慣を復活させている。
ちょっと前までは、瞑想を毎日20分やるというそれなりにガチな日課があり、それをしていた頃は色々と平穏無事だったのを思い出したからだ。
脳内の独り言に耳を貸さない。楽観もしない。悲観もしない。気が反れたと思ったら、再び呼吸に意識を向ける。それを既定の時間、繰り返す。
これを繰り返し、上手く深い集中に入れた時には、エクスタシー的な意味ではなく、すごく気持ちがいい。気が晴れる。大袈裟だが、それこそ病みつきになるほどだ。
ということで今日は、ストレスに晒されがちな教員や講師の方に向けて、この瞑想という心のトレーニングについて、僕の知見を簡単に書いておく。
前提:瞑想は悩みを”消す”のではない。
ただまず最初に伝えておきたいのだが、瞑想をしても、悩みが根本から消えることは無い。そうではなく、悩みとか不安に囚われなくなるための修行だと、僕は感じている。
座禅を我流で真似をして、自然音をアプリで聞きながら瞑想を始めると、2~3分も経たずに色んな思考が立ち込めてくる。
過去の黒歴史、終わっていない仕事、漠然とした未来への不安。気が付けばそっちに意識を持っていかれそうになる。
それを自覚し、改めて呼吸や、流れてくる環境音に意識を向ける。すると、また気が反れる。反れたらそれを改めて自覚し、また集中の対象を切り替える。
これを繰り返すと、感情や思考を、どこか他人事として観察できるようになってくる。スマホの陰惨な広告も、「こういう作品ね」と、反応せずあしらえるようになる。
僕はこういう、自分の感想や感情を割引いて物事を見つめるのが、すごく苦手だ。SNSの罵詈雑言を読むと、何故か自分の心が疲れ、自分が悪口を言われる以上にしんどい。
しかし、そういう言葉は言ってしまえば、僕には関係のない世界である。勝手に反応して勝手に疲れているだけなのだ。注意の対象を即座に切り替える。
瞑想とはそのためのトレーニングなのではないか。悩みを消すのではなく、ネガティブに囚われているのを自覚し、意識を反らす一連の作業を、高速で行えるようにする。
僕はそう納得している。実際、今は習慣を復活させて3日目とかなのだが、既にある程度、注意の対象をサッと切り替えることができるようになっている。
例えばスーパーで聞こえてくる井戸端会議に意識が向いても、それをすぐ自覚し、その辺のマヨネーズの商品名に意識を向けることができている。やはり、心穏やかだ。
意識を向ける対象を自在にコントロールし、必要に応じ心のスイッチを切ることさえ可能にする。その域まで行きたいと思うが、まずは欲張らず、ただ継続を心掛けたい。
【不安】という秘書を正しく理解する。
僕は僕自身の強い不安感について、「心配性な秘書のような存在」という風に解釈している。
実際、不安に感じるときは、大抵何かが抜けているか、準備が不足しているからだ。直感の声を拾うことで救われた経験は、それこそ枚挙に暇がない。
だがこの秘書の取り扱いは、結構難しい。ボヤになりそうな抜けを伝えているのか、それとも杞憂をただ並べているのか、判断するのはなかなかの難問だからである。
しかし、瞑想を重ねて一歩割引くという視点を少しずつ獲得していくと、この2つを明確に分けるラインが、どうやら存在するっぽいということが見えてきた。
これはただの仮説なのだが、準備不足等による不安は、少し考えれば言語化できるし、かつかなり強い感情となり、解消されるまで何度も意識に上ってくる。
一方どうでもいい不安は、一旦そこから意識を切ると、思い出せないことがほとんどなのだ。
今日もあったが、結構深刻な悩みだったはずなのに、少し他のことをやった後に思い出そうとしても、跡形も頭に残っていないのだ。つまり、どうでもいいのである。
僕の中の責任感というメタは、あらゆる不安に対し即座に反応し行動せよと急き立てるが、2分程度後回しにしたって、ぶっちゃけなんにも変わらない。
頭の中が喧しいと思ったら、2分程度呼吸に集中する。それだけで、不安と杞憂の切り分けは上手くいくことがほとんどだ。
塾業界も教員も、年度切り替えの時期で、とにもかくにも繁忙となる。膨大なタスクに猛然と取り掛かるのも一手だが、敢えて一歩引くという手段も持っていてほしい。
楽観もせず、悲観もせず、ひたすら観察を続ければ、いずれ心穏やかなり。本当にそう感じている。
では今日はこの辺で。