精神年齢9歳講師のブログ

校舎での出来事、読んだ本、つまりインプットを全てアウトプットに変える実験場、的な。

いい授業とは、互いの知見が共有できたときに達成されることだな、と。

良い授業とは何か。これの定義は、よく考えればすごく難しい。生徒の反応が良ければ、それは自動的によい授業なのだろうか。こんな風に、全く掴みどころがない。

 

だが、自分の中にその解も無いまま、漠然と授業をし続けるのも嫌だと思っていた。せめて自分なりの、いい授業についての矜持くらい、懐に持っていたいではないか、と。

 

例えば、圧倒的知識・経験量を持っている者が、一方的にそれを語ることが、つまりいい授業なのだろうか。

 

となれば世の中の授業と呼ばれるものは、少数のカリスマ講師の映像授業を観れば事足りるはずだ。だがやはり、そればかりではない。

 

また、その科目に秀でた講師より、知識量は劣っても別の要素によって高く生徒やご家庭から評価されている講師もいる。その違いは、果たしてどこにあるのだろうか。

 

そんなところから考えを始めたところ、自分がいいなと思った授業には、ある共通する要素があると気づくことができた。

 

今日はそんなことをふわふわっと書いてみようと思う。

 

 

いい授業とは、互いの知見が共有できたときに達成されると思う。

 

僕が「さっきのはいい授業だった」と思うのは、生徒に有益な情報を伝えられたのみならず、僕自身も新たな学びを彼ら・彼女らから得られたときである。

 

例えば、現在完了形について、授業内で僕自身が学んだことを語る。それくらいなら、正直誰でもできる。誰でもできるが、いい授業を確約してはくれない。

 

知識を伝えても、その語り方ひとつで全く心に響かないこともしばしばだ。これではいい授業ではなく、ただの自己満足にすぎない。(新人時代によく陥る罠である)

 

ただ授業内で生徒のリアクションを観察し、こう語ると伝わらないとか、こう語ったら腑に落としてくれたとか、そういう新たな問いを得られれば、話は別だ。

 

特にそれが授業内のやり取りで一つ結実するところまで持っていけたら、それは僕にとって間違いなく、「いい授業の1つ」となる。

 

具体例が難しいが、僕が説明し、生徒が演習し、その際に気付いたことを再度シェアすることで、また学びが深まるというやりとりが、その一例だと感じる。

 

ただしこれは、最初から何の準備もせず、その場の空気に任せるアドリブ型授業とは似て非なるものだと思う。

 

自分の中にある経験値と仮説が一定以上の水準に無いと、そもそも生徒の様子を見る余裕もないし、生徒の反応に対するレスも打ちようがなくなるためだ。

 

野球を始めて間もない人が、流し打ちなどを反射的に実行できないのと似ている。それができるようになるまでは、ある程度の下地が必要だと感じる。

 

「生徒の様子を見ろ!」「演習中は必ず机間巡視をしろ!」といったアドバイスは、すごく基本的な教えだが、同時にそれこそが、いい授業に欠かせない心掛けでもある。

 

いい授業とだけ聞くと、自分の語りをひたすらに上手くしようとしたり、知識量をガムシャラに増やそうとしたりする人が多い印象だが、それは車輪の片側に過ぎない。

 

本当にいい講師・先生と言われる人は、やはり生徒の様子を深く観察している。俗的な言い方だが、生徒一人一人に関するネタが豊富なのだ。

 

下手すると、教える技術そのものよりも優先順位が高いのではと思えてくる。相互のやり取りなんてのは、ただの挙手と発問で達成できるほど浅くない。

 

生徒一人一人の様子、クラスの雰囲気、それらを観察してそこに刺さる授業を、狙ってできるようになる。

 

それがプロの条件の1つなのかなと、改めて認識した。まぁ、僕はあと数年以内に引退するつもりなので、このことは教えとして後の代に伝えようと思うのだが。

 

ということで今日はこの辺で。

 

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