精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

生徒を「ありのまま」に見つめるにはどうすればいいのか。

「嫌われる勇気」を読んでいると、「普通である勇気」や、「ありのままの自分を認めること」の重要さが、繰り返し出てくる。

 

このことを読んでいるとすごく考えさせるのが、生徒との向き合い方だ。特に、正直好ましくない言動を繰り返す生徒に対して、僕はその向き合い方に呻吟している。

 

アドラー心理学の観点から言うと、子供は褒めてもいけないし、叱ってもいけないのだという。あるがままを受け止めて、認めて、できる支援をし、見守る、と。

 

ただし介入はしない。賞罰で評価しない。縦の関係を手放し、横の関係を築く。なるほど、素敵な考え方だと思うが、本書に出てくる青年みたく、反論したい思いは強い。

 

―そしてふと思ったのだが、そもそも「ありのまま(あるがまま)」とはどんな状態なのだろうか。僕はそれについて、明確な答えを持っていない。

 

それを理解しないままでは、その観点を得るのも無理な話だ。だからしっかりと学んでおくことにしよう。

 

親が、教師が、大人が、その子を「ありのまま」に見つめるとは、そもそもどういうことなのか。

 

乱暴な話になると思うが、自分なりにざっくりとまとめておこうと思う。

 

 

「ありのまま」とはそもそも何を意味する言葉なのか。


「ありのまま」とは、わかるようでわからない言葉である。なんとなく、「本来の姿を見つめること」という意味だと考えているが、それでもやはりつかみどころがない。

 

だからまず、色んな人の考え方を調べてみることにした。Weblio辞書を引いてみると、意味というより、例文がたくさん出てきた。以下に引用する。

 

あなたはありのままでいてください。

ありのままで強烈な印象のある美しさ

ありのままであるさま

ありのままであること

飾りけなく,ありのままであるさま

ありのままで,不自然でないこと

包み隠さないで,ありのままであること

包み隠さないで,ありのままである

程度 物事に誇張がなくありのままであるさま

ありのままで,不自然でないさま

ありのままでいる 飾りけなく,

ありのままであること

飾らず,ありのままであるさま

www.weblio.jp

 

―全体の共通点を考えてみると、自分の感情を素直に出すとか、等身大の自分から着飾らないとか、そういう何かが感じ取れる。

 

そこを取っ掛かりとして、更に詳しく調べていくと、すごく端的に「ありのまま」を説明していると思えた言葉に出会った。それは以下の部分である。

 

 「平常無事」は、人為的努力を廃して、ただ、ありのままでいるのがよい」

www.engakuji.or.jp

 

人為的努力を廃して。この部分に、凄く納得した。弱みを隠さず、強みを偽らず、本当に”そのもの、そのまま”を見せること。これが「ありのまま」ではないか。

 

そして「ありのまま」である一環としては、現状の自分をしっかりと理解し、認識し、肯定することも必要だと感じた。

 

理想の自分、目標とする像はあっても構わない。しかし、それだけが正解で、そこに辿り着いていない自分は不完全で未熟といった考え方はしない

 

自分が弱みと思うことも、強みと思うことも、包み隠さず感情をこめず、ただ淡々と観察し、理解する。

 

それが「ありのまま」の言わんとすることではないかと、とりあえずは腹落ちしたところである。

 

―そう考えていくと、「ありのまま」の対極に当たるメガネの正体が、段々とわかってきた。

 

そしてそのメガネを掛けていると、生徒や子供をありのままで見ることは不可能だと気付いた。ならば意図的に外すだけだ。

 

ということで今度は、その”メガネ”について書いていく。

 

その子の「ありのまま」を曇らせるメガネ。

 

端的に言えば、生徒や子供の「ありのまま」を見つめられなくなる原因は、【期待】である。【期待】を手放さないと、ありのままは絶対に見えてこない。

 

目の前の生徒が自分の理想とする生徒像を体現するはずだと【期待】していると、そことの落差が全て問題行動として目に映ることになる。

 

静かにするべきだ、宿題はやるべきだ、話は素直に聞くべきだ、俺の授業を受けたんだから、成績は上がるべきだ、という風に。

 

そうやって「べきだ」を並べている限り、【期待】に沿わない行動すべては容認できなくなる。あるがままなどどうでもいい話になってしまうのだ。

 

だから、【期待】を意識して捨てる。理想からの逆算などしない。まず目の前の様子からスタートする。そこを認めることから始めるのだ。

 

「なぜ集中できないのだろう」という問いを立てない。「この子は集中に苦戦する面があるんだな」という答えから始める。そこから立脚して、その様子を見ていく。

 

とはいえ、放置はしない。しかし、押し付けもしない。自分の胸の内を語る。気持ちを言葉にする。そのうえで、生徒の胸の内を少しずつ聞きだしていく。

 

そして結果、【期待】から自由になり、お互いの気持ちがオープンになった状態。そこが「ありのまま」の究極のゴールなのではないだろうか。今はそう納得している。

 

【期待】というメガネは、本当に無意識下で装着しているものだ。自分が生徒の言動に何かしらの苛立ちや違和感を抱いているときは、大体それを掛けている。

 

それを自覚し、メガネを外す。【期待】を捨てて、目の前の言動を受け止める。受け止めたうえで、寄り添うためにはどうするかを、試行錯誤する。

 

かなり深いテーマに進んでしまった気はするが、正直気持ちは結構楽になった。やはり【期待】は時として、好ましくない影響をもたらすものなのである。

 

ということで今日はこの辺で。

 

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