時折、講師から生徒制御に関する不満・不安・相談を受ける。これらの悩みをよくよく聞いていくと、大抵はある1つのそれに落ち着く。
それは、「生徒がなかなか、黙って授業を聞いてくれない」というものだ。授業時間が50分あったとして、どうしてもガヤガヤする時間ができてしまう、という風に。
―これに関して、僕は手段と目的がごっちゃになっているような気がしている。授業中の沈黙は、目指すべきゴールではなく、ただの手段、プロセスではないか、と。
もっと言えば、授業を通じて成し遂げたい目的を見据えれば、別に沈黙はマストではないと感じている。つまり、「生徒制御」と「沈黙」は似て非なるものだ。
今日はそんなことをテーマに、軽く記事を書いてみる。
黙って聞かないと授業にならないのなら、手札が少なすぎることが問題ではないか。
いわゆる”荒れた”クラスを立て直した人たち、あるいはそれを専門とする組織の人が書いた本を、一時期読み漁っていた。
その人達が口を揃えて提唱していたのが、共通する荒れの兆候・元凶を徹底して取り払うことが全ての始まりだということだ。
それについては別の記事で何度かまとめたので、今回は割愛する。
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そして、その上でまた説かれていたのが、「誰もが輝けるように、授業内であらゆる工夫を講じること」であった。
例えば授業を真面目に聞かない生徒は、大抵クラスに一人はいるものだ。僕もその一人である。しかし、時にはすごく深く集中し、前のめりで聞くこともあった。
黒板に先生が何かを書いて、一方的に話を聞くだけの授業は退屈だ。そしてある意味恐ろしい話なのだが、生徒制御に苦戦する人たちほど、これしかしないことが多い。
英語の授業一つとっても、例えばリスニングの問題を解く、黒板に問題を解かせる、音読を起立して行うというスパイスを入れることは、いくらでも可能である。
むしろ50分黙って席に着かせないと、授業が成り立たないという手数の少なさに問題があると僕は感じている。そして、授業のプロほど、どうやらそう考えている節がある。
授業とはあくまで、何かしらの教えを伝えることに過ぎない。その手段は、別になんでもいいのである。
・・余談だが、最近知って、授業に応用できそうだと感じている心理的バイアスの1つに、「ピーク・エンドの法則」というものがある。
これはいわゆる「終わりよければすべてよし」という感想のことで、要は最後さえバチっと締まっておけば、途中ガヤガヤしてもひっくり返せる、という意味である。
もちろんそれに甘えるわけにはいかないのだが、例えば集中力がなく、注意が散漫な生徒がいた際に、この法則は応用が利くように思える。
最後の15分くらいにその子が好きな活動を持ってくるようにすれば、「今日はなんかすごくできた!」と思う可能性が高くなる。要は満足度が上がるのだ。
逆に、途中まですごく上手いこと集団の雰囲気を良くできても、最後に崩れるような何かをした瞬間、全体の印象が悪くなることだってあり得るのだ。怖い話である。
ただ、生徒制御はただの手段であるという原則を思い出せば、色んな可能性があることに再び気付けるように、僕は思えている。
だからそういう相談を受ける度、「沈黙させずとも、席に着けずとも、あなたの教えを伝える方法は無いの?」という問いを、最近は差し向けるようにしている。
それがどこまで正しいかはわからないが、手段と目的を履き違えることは確実に不幸を生む。そう捉えているためだ。
かつて悩んでいた時分に、そのことを教えてくれる人がいたらよかったなと、少しだけIFのことを考えてしまう。同じ轍を踏む人が減ることを、願って止まない。
ということでいつになく散文的になったけど、今日はこの辺で。