精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

「言語化」の練習は、不愉快に感じた出来事から始めるのがオススメ。

自分の感情を言葉にできた方が、ストレスは少なくなると言われる。それもあって、僕は入試等で物語文が問われるのは、賛成派である。

 

しかし言語化というのは、やってみるとわかるが結構難度が高い。そもそも自分が何を言葉にできていないのか、それを突き留めること自体が難問である。

 

「観察力の鍛え方」や「大河の一滴」といった本や、その他色々な小説を参考に、自分なりに言語化をスムーズに進めるための方法はずっと考えて続けている。

 

結果最近は、自分が不愉快に感じた出来事を丁寧に解きほぐすと、言語化がし易いと思っている。練習の材料としては、実は不快感が打ってつけなのではないか。

 

ということで今日は、僕なりの言語化プロセスについて、まだまだ拙い仮説だが、段階を追って説明していこう。

 

 

まずは出来事と感情のディスクリプション。

 

そんな今日、実は一件、すごく不愉快だと感じる出来事があった。それはたまたま、近所を散歩していた際に出くわした。

 

ある車が僕の横を通って駐車場に入っていったのだが、その前方に何故か段ボールと巻かれた布団のようなものが転がっていたのだ。

 

車が止まり、運転手(細身のおっさん)が下りてくると、彼はそれをわざわざ大きい音を立てて蹴り飛ばし、道路の端に寄せたのだ。

 

僕は元々HSP気質で、大きな音が苦手であり、その瞬間心臓がキュッとなったのを覚えている。

 

そしてそのときから割と1日、すごく嫌なものを見たという思いが、頭の中にずっと残っているのだ。いわば、旅先で見た犬のクソがずっと頭に残っている状態である。

 

―まずはこんな風に、出来事を第三者視点で考えるのがオススメだ。実はそもそも、時系列さえうまく言葉にできていないことが、特に不快な出来事の場合は多いからだ。

 

そしてその後は、感情を丁寧にディスクリプションしていくのが、次のステップとなる。ここはまず、解像度が低くてもいいので、素直に胸の内を書いてみる。

 

「手で静かにどかせばいいのに、なんでわざわざ乱暴なことをしたのだろうか」「こんなことにも感情的になるなんて、器が小さくないだろうか」ということを僕は思った。

 

すると、気付く。僕は彼に対し、恐怖を覚えたのではない。むしろ、いたたまれなさ、憐れみ、哀しさ、やるせなさ、イタさを覚えたと言い換えた方が、しっくりくる

 

もっと穏便に済ませる方法があったはずなのに、物言わぬ落下物を蹴り飛ばすことで解決する。程度の低い方法を採る姿に、僕は痛々しさを覚えた。

 

―確かに、例えば「自分は特別だ!」的な言動をとる中学生に抱くのと、今日抱いた感情は、とてもよく似ている。

 

なぜこういう痛々しい行動を取る人が過度に心に残るのかまでは、まだ上手に言葉にできていないのだが、僕はそういう言動に触れるのが、全く好きではないようである。

 

ピエロ恐怖症の人がピエロを見たときに、または集合体恐怖症の人が蓮コラを見たときに抱くあの感情。それが僕の内に湧いているものの正体なのではないか。

 

嫌悪と憐憫。それらが混ざり合って強い感情になっている。そんな仮説を立てた。こんな感じで自己完結型の仮説が出来たら、次のステップに進む。

 

それは、他者の言葉を借りて、より正確にそれを言葉にすることである。ついでにそのプロセスも、ここに書いておこう。

 

他者はこの感情をどう言い表しているかを調べよう。

 

ここからはネットの集合知でも、好きな小説でも、あるいは直接他の人に質問をぶつけても、本当にどれでもいいのだが、自分の思考の外に触れることが大切となる。

 

僕の場合、「嫌悪 哀れ」という先ほど取り出した感情を、そのまま検索に掛けてみた。すると、面白い論文を発見することができた。

 

それによれば、一言に嫌悪感と言っても、実は異なる三種類のものに分解できそう、と言った内容であった。(本当にザっと読みなので、履き違えているかもしれないが)

 

「拒否と非好意」、「憎悪と憐憫」、「恐怖と劣位」がその三種類だという。一つ一つ具体を考えると、すごく理解がし易い。

 

「拒否と非好意」は、ゴキブリに出会ったときのあの感じだろうか。嫌いだから近付けたくないし、近づきたくない。ある意味原始的な「嫌い」の感情である。

 

「恐怖と劣位」も、例えば目の前からヤクザ的風貌の人が歩いてくるのを考えると合点がいく。この際、不快の中には、絡まれたら殴り倒されるという恐怖が潜んでいる。

 

そして僕が今回強く感じている「憎悪と憐憫」も、実は密接にリンクし合っていることが伺える。

 

僕は実際、周りにいる人を不快にさせることをつゆほども想像できない人間は、憎悪まではいかずとも、すごく嫌悪感を抱く。(ちなみに、憎悪は嫌悪の上位互換だ)

【52種類を網羅】プルチックの感情の輪を徹底解説 |

 

だが同時に、そういうことに気付けないまま他者に迷惑を掛けていることに対し、憐れだなとどこか見下す気持ちも持っている

 

例えば、先のオッサンが理不尽にも僕に対して突っかかってきたとする。モノを蹴り飛ばした際のキックの強さから判断しても、殴り合いで負ける気は1mmもしない。

 

だから、僕は全くオッサンに対し、劣位は感じていない。同時に、恐怖も然り、だ。単に嫌悪感が強いだけだし、そこには憐憫も多分に含まれている。

 

殴りかかられたらどうしようという恐怖ではなく、単に犬のウンコの様に不快なものを見せつけられたことが、この上なく不愉快で後味悪く感じているのだ。

 

となれば、きちっと時間を取って、気分を切り替えられるようなことにでも興じていればよかったように思う。なんというか、拍子抜けである。

 

・・・なるほど、嫌悪感一つとっても、すごく奥が深い。そのことがよくわかった。その発見に至らせてくれたという意味では、器の小さいオッサンには感謝である。

 

この時点でほぼほぼ自問自答は完了なのだが、もし可能であれば、もう1つだけ付け加えると良いステップがある。

 

最後に、それについて書いて、締めとしたいと思う。

 

終わりに:その感情を活用する方法を探す。

 

僕は先のおっさんに嫌悪感を抱いた。この嫌悪感をさらに分析すると、「憎悪と憐憫」に分解できると知った。この時点でも、心はかなり穏やかなのは間違いない。

 

だがさらにそれを深めて、この感情を自分にとって有益に使える方法が無いか、考えてみるのも面白い

 

実際、哀しい気持ちのときには細部までチェックが行き届いた仕事ができるようになるし、苛立ちが強いと、ザクザクと作業を終わらせることが可能になるという。

 

感情に良し悪しは無く、要は解釈と使い方が全てなのだ。となれば、僕はこの憐憫を、どう活用すればいいのだろうか。

 

感情について考えるときによく参考にするのが、仏教と西洋の哲学者の考え方だ。そして今回は、仏教の中に、面白いヒントを見つけることができた。

 

曰く、「憎悪を手放し哀れみに変えれば、少なくとも自分は救われる」という感じの話だった。すごく、なるほどと思った。

 

憎悪はやはり疲れる。自分を毛ほども認知してない相手に対し、一方的に心のエネルギーを持っていかれるようなものだ。許すのは大変だが、哀れむのはまだできそうだ。

 

だから僕は、彼を哀れむ。可哀そうな人なのだと思う。そう考えてみると、すごくどうでもよくなってきた

 

「かわいそうだな」と思うニュースに触れても、数分とすればどうでもよくなるあの感じにとてもよく似ている。

 

僕は嫌悪感を抱いたら哀れみに転化することで、気持ちを早めに切り替えることができるのかもしれない。これまたいいヒントを得られたように思う。

 

これだから「言語化」は楽しい。つくづくそう思う。

 

ということで、その面白さが少しでも伝わっていたら、嬉しく思う。では今日はこの辺で。

 

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