低学年向けコンテンツを実施しているのだが、最近疲れた様子の講師から、ある生徒の言動について、相談を受けた。
来てしばらく歩き回らないと席に着けない、間違えた問題に指導を入れると癇癪を起す、かと思えば急に全身の力を抜いてイスに横になる、等々。
ちなみにその子の学年は4年生である。だからこそ、自然と勘ぐってしまう。何かしらの発達障害を持っているのではないか、と。
正直、これ以上この様子が続くと、確実に他の生徒からクレームが来てしまうような状況である。報告を聞きながら、その思いを強くした。
ほっかむりをして、臭い物には蓋をするように、見て見ぬふりをするのは絶対に嫌だ。一人の人間として、この困難ごとに取り組まねばならないと、意を強くした。
取り組むことの第一歩とは、なんなのか。少し考えたが、僕はそれを、保護者に伝えることだと今は納得している。
「塾でちょっと多動が目立ちます」という様子を、僕は伝える義務がある。しかしなぜだか、今僕ははっきりと、抵抗と恐怖を感じている。
上手く言葉にできないが、その強い感情が、僕の行動を妨げている。「やっぱりいいか・・」と、弱いことを考える自分をはっきりと認識し、恥ずかしくなっている。
そんなとき、ネルソン・マンデラ氏のものだという、以下の言葉が頭に浮かんだ。
私は学んだ。勇気とは恐怖心の欠落ではなく、それに打ち勝つところにあるのだと。勇者とは怖れを知らない人間ではなく、怖れを克服する人間のことなのだ
僕ははっきりと恐れている。しかし、それを認識したうえで、行動を起こさねばならない。
そしてここで気付いた。僕は確かに何かを恐れているのだが、「一体何を?」という具体的な答えを、持ち合わせていないのだ。
対象を理解していないからこそ生まれる不安。その不安が膨らみ、恐怖に変わっているのだとすれば、僕は対象を理解することで、勇気が生まれるのではないか。
ということで今日は、そんな恐怖を丁寧にディスクリプションしながら、ついにご家庭にその旨を伝えたという、一種のドキュメンタリーを書いてみよう。
僕の恐れているものは何か。
僕は一体何を恐れているのか。例えば、そう伝えることで、生徒が傷つくことだろうか。少しその観点から考えたが、ぶっちゃけそうではなさそうだ。
色々アレコレ考えた結果、辿りついた。一番僕が恐れているものの正体は、すごく器が小さくて情けないものだった。
それは、逆ギレした保護者に理不尽な強い言葉を吐かれることだったのだ。つまり僕は、生徒のネガティブじゃなく、クレームを恐れている。
怒られることで心が折れるという豆腐メンタルというより、猛烈に不快な気持ちになるから触れたくない。僕にとっての理不尽とは、そういうものである。
集合体恐怖症の人が、ツブツブしたものを見た際に抱く猛烈に不快な感情。僕は強い言葉を吐かれると、辛いというより、それに似たすごく嫌な気持ちになってしまうのだ。
―ちなみに本当にたまたま、昨日の記事で僕は「不快感」の正体について、知見を深めることができた。僕の思う不快感とは、憎悪と憐憫なのだ。
自分は哀れみを抱いている。その感情を自覚し、意識して強めることで、僕は不快を克服し、穏やかな気持ちに戻ることができる。昨日、そう仮説立てた。
そういう転ばぬ先の杖を用意しておけば、健全な勇気が湧いてくる。全快魔法を準備しておけば、ボスに対し強気で攻められるのと似ている。
本筋からだいぶズレたが、怒られたとして言葉さえきちんと選んでおけば、理不尽なのは向こうで僕は被害者となる。その場合は、哀れみの感情で自分を救おうと決めた。
だから、次の話に進もう。こういうぶっちゃけ言いにくい塾での様子は、どんな風に伝えたらいいのだろうか?
怒られる可能性が低く、意図が伝わる可能性が高い文言を探し、活用したい。続いては、それを調べた備忘録である。
「発達面が気になる子がいた時、保護者にどう伝える?」
色々なケースを調べてみたが、保育士のそれが一番多かった。2~3個ほど記事を読んで、その共通項をまとめてみよう。
当たり前だが、「こっちは被害者だ!」的なオーラを全開にし、「こんな迷惑行為を繰り返している!!」と書き殴るのは、最悪を通り越して論外であるとされていた。
そんなことをする気はさらさらないが、書き方次第ではそう捉えられるリスクもあるという。それを避けるためには、素直にテンプレートを使うのが良さげである。
「とても熱中して遊んでいるのですが、次の活動に移れない時があり、本人も折り合いがつかないようで涙が出てきて困っている様子です。おうちではいかがですか?」
このテンプレートを読むと通じるが、本人”が”困っているという立場を死守することと、最後に提案で結ぶことが、無駄に感情を逆撫でしないコツの様に思える。
ちなみに、ここまで心を砕いても、耳を貸さない人は、全く貸さないらしい。ときにはヒステリックな応対をすることもあるという。
そんなときでも心を乱さない一助として、以下のこの表は示唆に富んでいると思った。
①精神的打撃
②否定・パニック
③怒りと不等感
④敵意と恨み
⑤罪悪感
⑥孤独感と抑うつ感情
⑦精神的混乱と無関心
⑧あきらめと現実の直視
⑨新しい価値観の獲得(障害受容ができた段階)【保育と発達障害①】未来につなげる発達障害の基礎知識~保育者ができること・保護者支援のポイント~ | 保育のお仕事レポート
この段階を大人だって踏んでいくのだと理解し、攻撃的な言動は哀れむ。ここまで用意しておけば、あとは一歩踏み出すだけ、というところまでたどり着いた。
勇気の正体は、僕の場合は気合ではなく、言葉に起こすことだった。すごく面白い発見だと思う。
実際に書いてみた。
ということでいよいよ、塾での様子を伝えるフェーズとなる。ちなみに僕は、その保護者の人と会ったことも、話したことも、実はない。
その段階でいきなり電話するのは、流石に憚られる。だからまずは第一歩として、テキストにて様子をお伝えすることに決めた。
慎重に言葉を選びながら、しかし伝えるべき様子はしっかりと書き、推敲し、時間を置いて、また見直す。今は草案を書き終えて、明日出社時に送ろうと決めたところだ。
書き終わってみると、不思議なことに、覚悟というには大袈裟だが、あれだけブレていた思考がバシッと落ち着いていることに気が付いた。
このメッセージを通じて、何かが変わるのか、否か。保護者は僕にキレるのか、どうか。いずれにしても、それはもう僕の課題ではない。
僕の課題は、相談を受け止めて、それを伝えるべき相手に伝えた時点で、終わっている。その後に何かあったとして、それは未来の僕が受け止めればいい課題である。
校舎長としてダーティな仕事。一つくらい場数を踏みたいと思っていたところだ。ちょうどいい。そんな余裕さえ、生まれている。
では、続報があったらまたやんわりと記事にしまーす。では今日はこの辺で。