【多動力】を得るためには、骨太の教養を身に着ける必要があると書かれている。木の幹に当たる、太い知識の部分を指す比喩表現だと思う。
その一例として紹介されていたのが、サピエンス全史だ。この大著は僕も読んだが、確かに一つの”骨太な教養”を得られたという手ごたえは、とても大きい。
・・・ところでそもそも論なのだが、こういう骨太な教養を身に着けると、具体的にどんなイイことがあるのだろうか。この質問に答えるのは、なかなかに難しい。
僕自身、ずっとしっくりくる答えを持てていなかったのだが、最近「あ、これだな」という一つの結論にたどり着いた。
今日はその話を書いてみる。
骨太の教養はすべての”はじまり”である。
教養を身に着けると、そこがゴールという感じがするが、実際は逆。ある意味、全ての始まりだと考えて、差し支えないと思う。
これはどういうことか。例えば最近、中学生の頃から腰を痛めていたり、肩関節の硬化が目立ってきたりしたことをきっかけに、ストレッチについて勉強している。
そしてそのストレッチについてもっと根っこから理解するためには、筋肉の名称と、その働き、繊維の方向を知る必要があると思った。だから、解剖学に辿り着いている。
解剖学を齧っていくと、ある日ふと、閃いた。「そもそも自分が痛めている筋肉の名前は何なんだ?」という問いだ。
調べてみると、僕が昔怪我をしたのは、脊柱起立筋の付け根・・というより、腰形方筋というものの方が、位置的にしっくりくるようだった。
そしてその腰形方筋を伸ばしたり縮めたり、解したり緊張させたりするには、身体をどう動かせばいいのか。その観点で、ストレッチの動画を観るなどして、学ぶ。
後は実際に自分でその部分を触りながら、いわゆる「入り」を確認して、動作を微調整していく。今のところ、痛みが出ても、割と的確に解せるようになってきている。
・・・この例を通じて何が言いたいかというと、一定値以上の教養を得ると、自然と問いが発生するということだ。こうすればどうなるか、ああすればどうなるか。
勉強でも同じだが、知識を入れるより、問題を解く方が、学習の効率はイイ。しかし、問題を解くためには、知識を入れるのが先だ。本でも実体験でも、なんでも、だが。
そしてこの自然発生した問いを試行錯誤しながら解くことで、教養の幹は太くなり、末端は広がりを持つようになる。まさに大樹の如く成長していくのだ。
面白いことに、一つ自分で浮かべた問いが解けても、即座にまた次の問いという形で更新されるものだ。まさに【観察力の鍛え方】に書かれていた通りのことが起きる。
この無限ループに乗ると、気が付けば他の人から見ると途方もなく遠い領域に辿り着いたり、自分の中の別の教養と結びついたりする瞬間さえある。
大好きな比喩だが、まさに「思考の水面下に存在する、膨大で立体的な知識」と言える。その厚みを増やすことは、本当に楽しいと思っている。
単に知識を知っているだけではただの物知りだが、そこに仮説・検証のサイクルがくっつくと、深い教養に進化していく。僕はそんな風に捉えている。
教養の第一歩は、実際にやってみること。
偉そうなことを言える口ではないのだが、教養とされるものの第一歩はこれだろうなと、実は自分の中で定跡化しているものがある。
それは、実際に試すことだ。メソドスをとっととテクネーにする。そうすれば、強制的に教養は始まっていくのではなかろうか。
凄く乱暴な比喩だが、ダンゴムシは落ち葉を食べるという知識を語る人と、ダンゴムシは落ち葉を食べるのを確認したと語る人では、得ている経験値に雲泥の差がある。
図鑑で読んだ。動画で観た。そんな人はごまんといる。だが、実際にダンゴムシを集めてきて、それを確認した人は、果たしてどれくらいいるのだろう。
そして実際に落ち葉を食べるのを確認したとして、そこで思考は止まるものだろうか。僕はどうしても、どんどん新しい問いが生まれていくように思えてならない。
例えば、落ち葉を複数の種類用意しておくと食べるものに偏りは出るのか、食べるスピードは平均してどれくらいなのか、等。
その問いをざっくり10問くらい解く頃には、おそらくよほどのことが無い限り、その地域でトップクラスにダンゴムシに詳しい存在になっているだろう。
凄くヘンな例え話だったが、教養の本質とはこういうことではないかなと考えている。ちなみに上記の話は、途中まで僕の実体験である。
教養は得てからが始まり。そう思うと、幾分か手触り感をもって、実用書とかその辺を読めると思うのだが、どないでしょう。
では今日はこの辺で。