最近自分の中でもっと解像度を高めたいと考えているのが、「飽き」という感覚だ。心理学的なカタい言い方をすると、これは「心的飽和」ともいうらしい。
あくまで気の持ちようなので、具体的な感情とは別物だ。だから非常に抽象的なのかと思ったら、意外とそのプロセスは言語化されているらしい。
ではなぜこの「飽き」という感覚の解像度を上げたいのか。それは、好ましい行動に飽きを感じたら、敏感に察知して未然にそれを食い止めるため、というのが1つ。
もう1つは、自分が止めたい行動・思考に対して意図的に「飽き」のプロセスをぶつけて、意識を切ったり興味を失わせたりしたいから、である。
僕自身は我ながら結構な飽き性であり、一般的な水準よりは「飽きた」という感覚を経験する機会が多いのではと感じている。
だったらそれを活かして、有意義なことに使いたい。ひっくるめるとそういう話だ。
今日はそんな「飽き」に関するお話である。
僕が「飽き」を感じるとき。
まずは自分の思い出を振り返るところから始める。僕が「飽きたな~」と思うのは、大体以下の出来事のどれかが発生したとき(あるいはそれに気付いたとき)である。
①成長が止まった
②見通しが無いことに気が付いた
③中断された
④効果が出なかった
成長が止まったら、やっていて面白くないから飽きる。また、いつまでやればいいのかという問いが浮かんでしまうと、集中が切れて、やがて飽きに繋がる。
怪我や体調不良、あるいは多忙などによって継続していたものが途切れると、それまた飽きが生まれる原因になるし、効果が出ないのなんてその最たるものである。
―逆に言えば、これらの要素を回避したり、あるいはひっくり返したりすることで、飽きを感じることなく継続させることは容易になると言える。
例えば筋トレ1つ取っても、僕はここ半年以上、改めて重量と回数の記録を残すようにしている。すると、成長がはっきりと数値に出ており、素直に嬉しいのだ。
また、見通しが無いのがキツいのであれば、自分で勝手に見通しを作ればいい。簡単に言えば、中間目標だ。当て推量でもいいから、具体的なゴールと期間を決めてしまう。
そして中断されると飽きが来るなら、中断しなければいい、となる。自分が定めた量に届かずとも、「続けたこと」に集中し、自分を褒める感じだ。
僕自身、最近まとまった時間で「瞑想」をするという習慣ができていないのだが、例えば別のルーティンであるストレッチに混ぜるなどして、時間そのものは取っている。
ちなみに効果が出ていない場合の飽きについてだが、それは素直に従った方が良いと思う。別の手段を試したり、自分には要らないと見切りを付けたり。
この辺のトリガーを上手く避けたり活かしたりしながら、ここ最近は色んなことに取り組んでいる。
嫌な気分を狙って「飽きさせる」。
ところで、先に紹介した4つの要素の内、「中断される」というトリガーは、結構使える。具体的には、不愉快な感情を止められるのだ。
このことを理解するのに役立つ仏教の教えに、一の矢は受けるが二の矢は受けないというものがある。
簡単に言えば、イヤな出来事や病気はどうしても避けられないが、それによって感情が揺さぶられるのは意識すれば避けられる、という感じだ。
誰かにムカつくコメントを言われるのはある意味避けられない一の矢だ。しかしそれを反芻して苛立って、別の人にそれをぶつけるのは二の矢を受けたことになる。
それを避けるために有効なのが、この「中断」という考え方だ。人はどうやら、2.8秒だろうと対象から意識を切られると、なんかどうでもよくなるのだという。
―実際僕はさっきまで、とある筋トレ系YouTuberに噛みついたアンチのコメントの乱暴さと理不尽さに、すごく嫌な気持ちになっていた。
しかし買い物のために大雨の中家から出て、車に乗って、「あーあ、すげー濡れちゃったよ・・」と思ったときに、ふと気が付いた。
「んー、どうでもいいな」と。僕の意識は一瞬だが確かに雨に向いた。その結果、不快感と嫌悪感からクラッチが切れて、気持ちが中立のところに戻ったのだ。
短時間で良いから、目先の不快な何か以外に集中する術を、日頃から如何に用意しておくか。これは結構大切ではないかと感じている。
僕自身色々試している最中だが、しっくり来ているのはとりあえず頭に浮かぶままを落書きしたり、敢えて晩御飯のメニューをじっくり考えたり、そんなところだ。
自分なりのオリジナル中断法を、皆様もぜひ考えてみていただければと思う。
では今日はこの辺で。