自分で言うのもなんだが、僕は引っ込み思案だ。常に何かに困っていると”思われる”ようで、頼んでもないのに、アドバイスをよく貰う。
つい先日も、ある新しい趣味について少しあらましを語ったら、それについて詳細な説明がとある人から送られてきた。これ自体は完全なる【善意】に違いないのだが・・。
https://www.homes.co.jp/words/s4/525002767/
・・・それについて僕は、「ご丁寧にありがとうございます」的なことを返しておいた。やはり、僕に対する親切心からの行動には違いないからだ。
ただ、そこに書いてあった情報は、「ここまでは知ってます」と僕が事前に伝えていた話そのものだったのだが。
イメージは、入試過去問の連立方程式の文章題の後半で困っていたら、連立方程式そのものの基礎基本を丁寧に説明された状況と似ている。
申し訳ないが、僕にとって新しい発見は、なんにもないわけで。
こんな風に時折、自分に関係あるのも無いのも含めて、「善意の無知」によってむず痒い思いをする人の話はちょこちょこ聞く。
今日はそんな話を、どちらかと言えば「俺、やってないかな?」と省みる機会として、少しまとめたいと思う。
無邪気さが奪うモノ。
Pixiv等に絵を描いてアップするのが好きな友人が居る。その彼がボヤいていたことに、こんな話がある。
時折コメントやDMで感想等を頂くのだが、全くイラストの説明欄を読んでいないことが丸わかりの、自分勝手な解釈が結構くるのだそうだ。
例えば「牛乳を注ぐ女」を見て、「いやぁ、美味しそうなシチューですねwそれを今から自分が飲もうとする姿、素晴らしいです!」というようなものだろうか。
他にも返答に困ると言っていたのが、「日記」だという。「今日僕は美術館に行ってきました^^」といった脈絡のない報告。
これもまた、どうしていいか困るとのことだった。ちなみに似たコメントは別ブログで僕もたまに貰うのだが、返しようがないので相手したことは一回も無い。
先の友人も、相手は基本的にしないのだそうだ。ブロックもしない、リアクションもしない。気が向いたときだけ適当なスタンプを送って終わり、だという。
―コメントをくれた当人は一生懸命、自分なりに感想を書いたつもりなのかもしれない。しかし主語や観点が徹底して自分だと、相手にそうとは伝わらなくなる。
それは自分勝手な解釈だし、あるいはどうでもいい日記である。しかしそれを指摘すると、そのリアクションは火を見るよりも明らかだ。
「なんでそんなこと言うんですか!!」という反論、からのアンチ活動。なんかこの流れはある意味テンプレのように感じてしまう。
こういうコミュニケーションのズレは、なぜ始まるのか。それは割と、その人がどれくらい上手に、自尊心と折り合いを付けられているかに繋がると思う。
続いてはそんなダークなことを書いて、結びとしよう。
母親の最大の仕事。
色々あって自己愛型人間の思考回路を学ぶべく買ったこの本だが、ある意外なヒントが書かれていた。それは、教育における母親の役割の重要さについてだ。
そもそも自己愛型人間は遺伝子がどうこうというより、環境的要因が強いのだという。ここでいう環境とは、幼少期、如何に「恥」の対処法を学んだかに掛かっている。
「嫌われる勇気」にも書いてあるが、子供はその弱さゆえに周りを支配する。その状況からスタートする。
しかしひとたび他の子供、大人との関りが始まってくると、思い通りにいかないことが次々と増えてくる。これはある意味、当然の話だ。
それを通じて、子供は無力感を学ぶ。ただ、これが「恥」の感情に繋がってくると、その子は行動を自ら抑制し、内々に閉じこもるようになっていくようだ。
この困難をケアするのが、母親の愛だという。自分の恥を肯定してもらい、愛を充填してもらい、自信を取り戻し、少しずつ恥と自尊の落としどころを身に着ける。
母親が愛情深いかどうかは、例えば父親の偏差値が高いかどうかよりもよっぽど子供にとっては大切な話なのだという。まさか教育論をこの本で学ぶとは。
・・・・・・しかし、愛によるケアが不十分で、恥を克服できず、それがコンプレックスや恐怖と結びついて凝り固まったまま成長すると、どうなるか。
おめでとう、自己愛型人間の完成だ。周りの人間は自分の期待を満たすために存在するし、自分は世界の中心なのだから、特別だし、そう扱われなければならない。
仮にここへナルシスト気質が加われば、ある程度のカリスマ性を”演出”できるため、地位や能力もそれなりに得られて、貢献できる人も出てくる。(迷惑は受けるけど)
しかしそこにも失敗すると、どうなるか。想像に難くない。自分を中心に世界を考える術しか知らないので、ぶっちゃけ、友達は少なくなるだろう。
「自分はすごい!」としか言わない面倒なヤツに構ってあげる人は、もういない。いても同類だ。だからその思考の癖を矯正する機会さえ、思い切り不足していく。
そうやってコミュニティから分断された人たちが、ひとたびネットで再び接続を得ると、こんな風にちょっと残念なコメントをしちゃうのではと、僕は感じている。
「善意の無知」は、申し訳ないけど面倒だ。だが、それを直してあげるほど、こっちは暇じゃないし、当人たちは何が微妙か多分わかっていないから、話が通らないと思う。
前に書いた記事と内容が思い切り被ったが、分断された人たちが再び接続されると、結果また分断が加速するなんて皮肉だなと、ネット社会の闇を見ている気分である。
では今日はこの辺で。