精神年齢9歳講師のブログ

校舎での出来事、読んだ本、つまりインプットを全てアウトプットに変える実験場、的な。

「自作・自炊は情弱」という考え方は、半分正解で、半分間違ってると思う。

むかーしむかし、まだまだ2ちゃんのまとめサイトにハマっていた頃に見かけたヤツの内、一つだけずっと引っ掛かっているタイトル(スレッド)がある。

 

それは、「自炊は情弱。惣菜の値切り品を買うのが至高。」といった感じのものだ。元々何板の話かさえ忘れるほど、仔細は覚えていないのだが・・。

 

なぜこれが引っ掛かっているかというと、料理好きな自分を軽く否定されたと、当時の自分が感じたからだと思う。(わかってる。病気だぜ)

 

その後ここ数年DIYが流行していくのを見て、羨ましく思う自分と、「情弱?」と思いそうになるカスな自分がスイングして、落ち着かないのをずっと感じていた。

 

ただ30歳を過ぎた今、ようやく自分の中で、このくだらない自分論争を腹落ちさせることができた。結果辿り着いた答えは、クソつまらないが、こんなものだ。

 

「自作・自炊は情弱」という考え方は、半分正解で、半分間違ってる。

 

今日はそんなテーマでもりもり書いていこうと思う。

 

 

何を目的とするかで、いくらでも変わる命題である。

 

情弱という言葉は冷笑のニュアンスがあるので好きではない言葉だが、周知の選択肢を知らないがばかりに損をしている人は居た堪れないな、とも思う。

 

例えば自炊をするとして、その目的が単なる節約であるなら、ぶっちゃけ値切り品の惣菜をかき集めておき、米だけ自分で炊いて食いまくるのが、一番安上がりだ。

 

自炊をするだけで食費が削れるかどうかは本人次第だ。つまり、目的が「節約」であるなら、自炊一択の状況は申し訳ないが情弱に等しいと思ってしまう。

 

一方、目的が別にあるなら、自炊の意味合いも変わってくる。僕はたまに食事制限によるダイエットをするのだが、市販品はほとんど食べられなくなるので驚きだ。

 

「これは脂質が多い・・」といった風に、自分が食えるものを詰め込んだ惣菜は、基本的に存在しないとみていい。(あったとしてもすごく割高だ)

 

そういう場合は、惣菜一択の方がむしろ情弱となる。こんな風に、目的が変われば、マウントの取り方・取られ方もまるで変わる。面白い話だなと、つくづく思わされる。

 

最終的に自分が欲しいものは、自分で作るしかないよね。

 

そして自作や自炊という選択肢が活きる場面は、本当の意味で自分の観察が深まった後にやってくると思う。

 

表面的な欲望ではなく、その対象を使い、観察した結果湧き出てくる、「こんなモノがあったらいいのに」という思い。それを叶えるには、作るしかないこともある。

 

例えば僕は時折、なぜか無性にエビマヨが食いたくなることがある。それこそ、300g以上食いたいというほど、エビに飢えることがあるのだ。(頻度は年3、4回くらい)

 

しかし300g以上のエビマヨをコンビニ等で買おうと思ったら、目玉が飛び出んばかりに高くつく。なんというか、すごく損をした気分になる。

 

エビマヨばかり大量に作る店があればいいのだが、僕の住む近辺にそんなところは無さげ。となれば、自分で作るしかない。そして僕は、その味に満足している。

 

―こんな風に、突き詰めた結果の「あったらいいな」というグッズは、基本的に市場に出回らない。ニッチ過ぎて売れないから、採算が取れないためだ。

 

もちろん例外として、クラウドファンディングで事前に予約だけ取った状態で生産するという手もあるが、そこまでするほどかよ、と。

 

参考書だけ入る横長の本棚が欲しい。しかしそれは売ってない。あったとしても超高い。そうなったら作るしかない。作った方が安い。

 

最終的に自分が欲しいものは、知識と経験を集めたうえで自作するしかない。30歳を過ぎた今だからこそ強く思う、一つの真理だと思う。図画工作は偉大だぜ。

 

ということで、今日はこの辺で。

 

 

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