精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

自分の深層心理を紐解くためには、「なんかとても嫌なもの」の解像度をとにかく上げるべし。

盲点だと気付いた瞬間自分でも少し驚いたのだが、僕は自分が嫌いなもの(皮膚感覚で嫌なもの)について、その解像度が全然高くない。

 

とはいえこれはある意味当然のことと言える。例えばクモが嫌いな人が、わざわざそれを丁寧に観察するかと言われれば、否なのと同じだ。

 

しかしひろゆき氏も確か「無敵の思考」で書いていたが、自分が嫌なことに敢えてノッてみて、どういう感想を抱くか確認するのもありという話もある。

 

あるいは、本当の宝は違和感や嫌悪感の中に隠れているものだ、と説く人もいる。ジャコウネコのうんちの中から上質な豆が取れるようなものだろうか。

 

となれば僕自身、いい加減「なんかとても嫌なもの」を「なんかとても嫌なもの」としか受容できない状況に疲れてきているのもあり、ここを密に観察すべきだと思った。

 

ということで今回は赤裸々に、「え、なんでこの仕事してんの?」と言われそうな白状も含めて、自分が嫌いな部分を開け放ち、新たな自分を探しに行きたいと思う。

 

長くなるか、短くなるか、それすら現時点ではわからないけど、以下本題である。

 

 

僕にとって「なんかとても嫌なもの」を並べて、抽象を取り出す。

 

まずそもそも論として、なんでこの仕事をしているんだと言われそうだが、なんかとても嫌なものとして僕の脳裏に真っ先に浮かんだ語句を書く。

 

それは子供だ。正直、僕は子供が好きではない。実際低学年向けコンテンツを導入する流れになったとき、感情的に反対したくらい、実は嫌である。(結局導入したけど)

 

―ただ、これだけだとあまりにも解像度が低いし、誤解を招きまくる気がする。僕が言う子供とは、単に一定の年齢未満の児童全てを指す言葉ではないからだ。

 

5歳でも子供と思わない子もいれば、成人しても子供としか思えない可哀そうな人もいるわけで、この背景には自分でも言語化できていない論理があるように感じられる。

 

では、僕はどういう人を子供だと解釈し、嫌な気持ちになってしまうのだろうか。少し考えたが、おそらくこれだという根拠は言葉にできた。

 

それは、「社会性が育ち切っていない人たち」だ。自分の面白さを集団の益より優先したり、積極的に和を乱すことに喜びを覚えたり、そういうタイプである。

 

ただ、社会性が育ち切っていない人たち全員に、僕は嫌悪感を抱くのかというと、それもまたダウトだ。そもそも、特定の個人のみならず、TPOでもそれは変化する。

 

となれば、僕はどういうTPOにおける、社会性が育っていない証左となる言動に不快感を抱くのか。これもまた、答えは明白であった。

 

集団だ。実際に集団に属しながら、あるいは壁一枚隔てた先に他者の存在がありながら、例えば衝動的に机を鳴らしたり、質問を投げ込んできたり。

 

言い換えれば、自覚しているか否かによらず、状況として、他人に不利益を与える、不快感を与える言動を繰り返す”子供”と集団内で接するとき、僕はすごく不快になる

 

ただ正直これが僕個人に向けられたものであれば、心のスイッチを切ってスルーできる。実際、子供だなと思うヤツの相手も、そうしていればストレスはそんなにない。

 

その辺を掘り下げて自問すると、なんかとても嫌なものが、なんかとても嫌である理由が、ムクムクと立ち上ってきた

 

それは結局、別の他者のストレスや、それによるクレームの原因になるからである。僕は結局、その当人はどうでもよくて、その言動による悪影響が嫌なのだ。

 

実際過去、特定の生徒がうるさいというクレームを入れられたことが、何度かある。その度に猛烈なめんどくささを覚えたものだ。

 

それに反論するためではなく、とりあえず自分に向けられたストレスを緩和するため、本当にここ最近はグレーゾーンと言われる特性の勉強を重ねまくっている。

 

そういう発達障害(ADHDとか)を調べればよくわかるが、件の言動は本人も無自覚ゆえ、止めることができないという特徴がある。(できてもせいぜい減らすことだけだ)

 

一応こちらが積極的に叱ることで、他の生徒のストレスを緩和してあげるという心がけは、発達障害を持つ生徒と関わる際に必須だという本を読んだことはある

 

叱ることを通じて、その子を授業に、集団に参加させてあげる、と。なるほど、年単位で、週に何度も同じ集団を相手にする学校の先生に向けたアドバイスだなと思う。

 

しかし私塾はそうではない。顔を合わせるのはせいぜい週に数回程度であり、僕らと生徒とご家庭の繋がりは、言ってしまえば契約書1枚によるものである。

 

僕らは人間性の指導とかまで出来はしない。そもそも、そういう特性を強みに変えたり制御したりするための指導も、別に行っていない。(すごく興味はあるけど)

 

周りから苛立ちやクレームを食らうリスクを背負い続けて、それでいながらこちらの指導が入らず、ヒヤヒヤしつつももどかしさを抱えて、解消できないまま悶々とする

 

僕にとって、社会性が育っていない子供を集団内で相手することがなんかとても嫌なものである理由は、つまりその辺にあるという感じだった。

 

元よりHSP気質が強いのもあり、他者からの(被害妄想だが)ネガティブに敏感だというのもある。集団内で一人が和を乱せば、他の何人かが苛立っているに違いない、と。

 

実際、とある生徒が五月蠅いことで学習環境が乱されていることは契約違反ではないかという1万字くらいの長文クレームが、別の校舎に来たこともある。

 

それもあって、僕は乱れで不利益を被っている生徒の存在には異常なまでに敏感となっている。実際にどう思うか聞いたことなど無いのに、だ。

 

僕は結局、誰からも怒られたくないのだろうか。仮にそうだとしたら、自分の幼稚さにほとほと嫌気がさすが、どちらかと言えばそうではないとも感じている。

 

このような状況を放置することは、場を預かるものとして失格ではないかと僕のメタがしきりに自分を責めるからではないか。

 

僕が設定している高すぎる理想に対し、そこと乖離しているからと自責が止まらないからではないか。

 

そして、その止まらない自責のトリガーとなるから、子供という存在を遠ざけたいのではないか。そう思うと、心の奥底に固まった闇の部分が見えてきた。

 

僕に必要なのは、自分を許すための大きな理由や根拠ではないか。その根拠として、僕はその当人の内面や、他者の心、一般的な静かさの水準を知ればいいのではないか。

 

なんかとても嫌なものの奥底には、僕が手を付けていない課題が潜んでいた。今まで隠していた本心を書き殴った今、過去最高レベルに心が穏やかだ。

 

ぶちまけた甲斐があったぜ。

 

それを踏まえてどう折り合いをつけるか?

 

アダルトチルドレンはどうしようもないが、年相応たる子供の無邪気さを許容できない理由は、個人的な感情として不愉快という感じではなさそうだ。なら、どうする?

 

どっかに書いた気がするが、自分のメタが設定している厳しすぎる「理想」を下げることが第一となる。それについては、潜在意識にこびりついているため、難度は高い。

 

潜在意識を変えるには、その意識を支えている根拠をぶっ壊すのが手っ取り早い。常識が変われば、価値観が変わることは、色んな人の話を読んでもよくわかる。

 

厳しすぎる潜在意識を支えているのは、多分過去のクレームによるトラウマだ。あるいは、自分が学級崩壊していたクラスに属していた時期があることも遠因かも。

 

社会性が育っていない生徒がいるとき、他の同室の全員が苛立っている。当人のみならず、僕にもその敵意を向けている。そんな妄想を、どう消していけばいいのだろうか。

 

一つはやはり、当人の胸の内を聞き出すことが一番だ。当事者しかり、同室の別の生徒しかり。しかしそれで本音を聞き出すことは、現実的な話ではないと思う。

 

となれば、自分の中の常識を壊すしかない。というか、僕の常識とはつまり、思いて学ばざる結果出来上がった、独断でしかない偏見の塊である。

 

一般的にはどのくらいの基準で許容されうるのか。一般的にはそういう子がいるとき、周りはどんなことを考えているのか。その線引きを、僕はする必要がある。

 

基準が無いからしんどいのなら、それを作ればいい。インプットさえすれば、その線を作ることは十分に可能だろう。

 

文字だと伝わらなかったり消えたりする温度や雰囲気を掴むためには、僕はやはり見学の旅に出なければならないのかもしれない。

 

単なる雇われの一校舎長ゆえ限界はあるだろうが、低学年向けコンテンツの校舎を行脚することこそ、今の僕に必要な物だと感じている。

 

・・ということで何をどうするかまで話は進められないのだが、今日はこの辺で。

 

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