必死で頑張ろうというと、鼻白む顔をする人がいる。時代錯誤だ、体育会系だ、僕は頭を使って動くんです、という風に。多分似た気持ちを僕も抱くけど。
僕は根性論こそ好きではないが、時には4桁の数を必死で筆算するかのような脳筋解法も要ると考えており、つまり偏った固執が良くないんだろうと今は納得している。
苦労したら楽をして、楽をしたならどこかで帳尻を合わせる。肉体を酷使するなら休みが要るし、長期のことを考えた後は短期のことを考え抜く。
バランス教は悪だという人もいるが、結局どんな健康食品も食べ過ぎれば身体に悪いのと同じで、バランスに全振りするからおかしくなるのではなかろうか。
全ての物事にはダークサイドがある。そう思えば、一見腹立たしく思える人や状況も、どこか肯定したり許容したりする余白が生まれる。今はそんな気がしている。
―となれば、例えば徹底して「ラク」ばかりする人は、何を失っているのかが、改めて気になる。
堂々と仕事を人に放り投げて、業務時間はほとんど遊び、テンプレ化した仕事だけこなしたら、定時(なんならちょっと前)にさっさと帰宅し、法定休暇は完全消化。
一見すると、仕事をする上での理想像であり、仕事せずカネをもらえるなんて最高だと思う人は多い。
しかし、全ての物事にはダークサイドがある。その観点から眺めると、結構シャレにならないものを、そういう人たちは失っていることがわかった。
今日はそんなお話である。
社会は全て交換で成り立っている。
社会は交換と分業で成り立っていると言われる。お金を払って商品を貰うのもそうだし、労働力を提供して給料を頂くのもそうだ。
なんなら友達の家に泊めてもらう場合も、そのサービスと、日頃の恩や友情といった目に見えないものどうしを交換していると言える。
そう考えれば、徹底してラクばかりする人は、何と引き換えにその快適さを得ているのだろうか。僕は恐らく、人望ではないかと思う。
将来的な、長期的な人望と引き換えに、ラクさを享受しているのではないか。ここでいう人望とは、なんなら信頼と言い換えてもいい。
なぜそう思うのか。例えば僕が人から仕事を依頼されたとして、僕が働いている間にその人が飯を食うとか早上がりするとかした場合、正直こう思う。
「俺の労力と時間を浪費しやがって」と。その人に対する信頼はちゃんと減らさせてもらうし、人望としてその人に抱くものも、激減させていただく。
社会は全て交換で成り立っている。何事もトレードオフだと考えたら、堂々とラクばかりすることは、実はリスクをただただ蓄積する行為ではないかとビビってくる。
もちろんそこに至るまでに根を詰めまくったとか、持ち回り制で別の人が今度は休めるのが前提とかであれば話は別だが、そうであればそもそも不満の火種にすらならない。
サボったうえで人望とか金を貰えるシステムなんてのは、詐欺メール以外で存在しない。肝に銘じたいところである。
真面目一辺倒の人が失っているモノ。
一方、では真面目一辺倒な仕事ぶりであればそれでいいのかというと、それはそれで近視眼的になったりチームを疲弊させたり、つまりよろしくない面がある。
僕は簡単にこっち側に吹っ切れてしまうため、ここは僕個人が抱える永遠の課題ではないかと思えてならない。反省することなどしょっちゅうだ。
実際、法定休日など全く気にしていないし、会社から有休を取れと言われても、取ったことにして普通に仕事をしていたほどである。
僕自身は気にしないタイプなのでどうでもいいと思っていたが、あんなに滅私奉公しているのにと気にする人がいたり、引き合いに出したりする人がいたら、確かに困る。
仕事が楽しいというか、もはやルーティンに組み込まれているのがここまで働く理由になっている気がするが、一歩間違えれば病的なしがみつきになるだろう。
仕事以外に打ち込めるものに対し、正直に打ち込む。職場に顔を出さない日を意識的に設ける。そうしなければ、僕は僕で色々失うことにも気付いている。
―ということで今日はこの辺で。