精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

「思いて学ばざる」ことの危険性と不健康さを書きなぐる。

好きな言葉を言えと言われたら「昇華」と「工夫」を真っ先に挙げるのだが、好きなフレーズを言えと言われたら、僕は論語の一節を挙げる。

 

學びて思はざれば則ち罔(くら)し。 思ひて學ばざれば則ち殆(あやう)し。特に後者の方が、自分事として常に胸に秘めるべき重要なヒントだと感じている。

blog.mage8.com

 

学校の教科書とかだと独善的に陥って危険という風にだけ書かれているが、それはどういうことなのか。なぜ独善的だと危険なのか。答えるのは割と難しい。

 

なんとなくわかるからこそ、意外と思考を深めるのが難しい。具体例を一つ挙げろと言われたら、意外と答えに窮するのではないだろうか。

 

ということで今日はタイトル通り、「思いて学ばざる」ことの危険性と不健康さを書きなぐってみようと思う。

 

 

より大きな共同体の声を聞け。

 

「嫌われる勇気」を読んで心に残った言葉はいくつもあるが、最近はその中でも「より大きな共同体の声を聞け」というフレーズが大切だなと考えている。

 

近視眼的になり過ぎると、世界が自分の全ての様に思えてくる。しかしそれは大抵、狭い世界の中だけの話だ。コップの中の嵐と賢人は形容していたが、言い得て妙だ。

 

学校に嫌な人がいて通うのが辛いとき、世界全部が自分の敵に思えるのと似ている。しかし学校は所詮、選べるコミュニティの一つに過ぎない。

 

そこが合わないなら、違うコミュニティに属せばいい。その発想を取り戻すためには、友人、学校、地域、国、世界と、大きな共同体を考えることが大事なのだ、と。

 

―というのを言うだけなら簡単だが、これは無意識下で掛かっているバイアスである。自分がそうだと知覚することさえ、極めて難度が高い。

 

自分の常識が世間から見たら違うというのに気付くには、それ相応の工夫が必要だ。例えば本来、出世は華々しいことだという話は、別業種の人から聞いて知った話である。

 

僕は一応立場が上がったが、それに伴う祝いの席は無かったし、要らないとも思っている。(前任者の送別会はあったけど、それはそれで自然だと思った)

 

昇進と書くからややこしいが、例えば単に守備位置をライトからセンターにコンバートする程度の意味合いしか、僕の中には無い。

 

現場から管理への移行、それだけ。―というのはちょっと寂しいとか、責任が増える分手取りが増えるのが醍醐味とか、そういう価値観も世の中にはあるという。

 

「管理者になったなら現場に出てる場合じゃなくね?」という考え方もある。そういう話は、他業種の友人と語って初めて、自分の中に知識として蓄えられた。

 

他の共同体の声を聞くことは、こんなにも難しい。日本に居ながら、英語圏の人の生活を想像することがほぼ不可能なのとすごく似ている。

 

―ふと気になったので、ここで独善的という言葉の意味をちょっと辞書で引いてみる。

 

1 他人に関与せず、自分の身だけを正しく修めること。

自分だけが正しいと考えること。ひとりよがり。「―に陥る」「―的」

 

思いて学ばざれば陥る状況とは、「自分だけが正しい」と思いこむ危険な思考。なんというか、友達がいなくなりそうだ。すごく納得できる。

 

特に僕みたいな内向型人間は、簡単にこのスパイラルに嵌るリスクがある。困難ごとがあったときに僕はまず、その対象について思い巡らせることから始めるからだ。

 

しかし思索にインプット、つまり自分が持たない知識や、別の共同体に属する人の意見を取り入れないままだと、僕は簡単に独善的に陥るのだろう。

 

思索を建設的に使える人は例外なく、問題に相対したら、新しい知見や視点を入れて分析し、それをヒントにまた考えるということが徹底されている。

r25.jp

 

「違う」「自分の中にその考え方は無い」という言葉を、拒絶ではなく前向きな発見として捉えるには、あと僕には何が必要なのか。

 

思いて学ばざればすなわち危うし。思考が凝り固まらないよう、日々色々な情報や価値観を、シャワーの如く浴びたいと思った。

 

では今日はこの辺で。

 

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